●私からのメッセージ
「頭(こうべ)を垂れる」

大阪府
金光教枚方教会
四斗晴彦 先生
私は、30歳を少し越えてから金光教の教師になりました。それまでは、ごくごく普通のサラリーマンでした。教会に生まれ育った私は、自宅である教会から通学、通勤をしておりました。出ていく時は「行ってきます」、帰ってからは「帰らせていただきました」と神様に手を合わせる生活が当たり前の暮らしでした。
そんな中、サラリーマン生活が5年を過ぎた頃に、大阪の営業所から神戸の営業所に転勤になりました。通勤にかなりの時間がかかることから、会社の寮に入ることにしました。初めて教会での生活から離れることになったのです。
入寮してから最初のうちは、「新しい環境に早くなじめますように」「うまく人間関係を築けますように」と、神様に祈ってから通勤する日々が続きました。しばらくすると、気の合う同僚も多くいる中で、大阪で働いていた時以上の充実感を感じながら仕事を続けている私がいました。いつしか神様に手を合わせることもなく出勤している私もいました。
仕事内容はというと、インフラを整備する建設会社で総務を担当していました。時には、現場で交通事故が発生したり、器物を壊してしまったりといったことが起こります。また深夜の工事では、近隣の住民から騒音の苦情が入ったりします。その都度、対応することになるのですが、なかなかうまく解決しない場合には精神的にくたびれることもよくありました。しだいに同僚と飲みに行き、愚痴や不平不満をぶちまけて、気を紛らわせることが多くなっていきました。
神戸で暮らすようになってから2年くらい経った頃です。なぜそのような気持ちになったのか、ある日、岡山県にある金光教のご霊地にお参りしようと思い立ったのです。金光教のご霊地とは、教祖様がお生まれになり、金光教というお道を開かれた場所、聖なる場所のことです。思えば、働くようになってから一度もご霊地へは参拝していませんでした。
久しぶりのご霊地は、大きな行事がない時でしたので、私が知っている、たくさんの人で賑わうご霊地とは違い、人通りもまばらでひっそりと静まっていました。神様が祀られている建物に入ります。そこは畳敷きの大広間で、天井も高く、祈りの場にふさわしい空間です。神様に向かい、正座をし、頭を垂れます。その姿勢でじっとしていました。その間、「仕事がうまくいくように」などと願うことは全くありませんでした。ただただ心も身体も神様に預けたような感覚で、気が付けば1時間も経過していました。
そのことをきっかけに、私の中で自覚的に変わったことが1つだけあったのです。愚痴や不平不満をさらけ出す時には、目の前にいる同僚だけではなく、同時に神様にも聞いてもらおうという感覚が生まれたのです。愚痴や不平不満など言わずにおくのがいいのですが、私の中では、神様とつながる回路が生まれた気がしました。
その1年後、私は会社を辞め、金光教の教師になる道を選びました。教師になって今や20年以上が経ちます。
少し前に知った話なんですが、皆さんは、「サードプレイス」という言葉をご存知でしょうか? 家庭でもなく、学校や職場でもない、三番目の場所のことです。肩書を脱ぎ捨てて、人と人とが交流できる場所、誰でも自由に出入りできる場所。例えば、地域の公民館、趣味のサークルや、気の合う仲間と集うカフェや居酒屋などがそうですね。自分らしくいられる場所で、くつろいだり、人とつながったりしながら、精神のバランスを整えます。近年はサードプレイスを持つことが大切であるとよく言われています。
そのサードプレイスに加えて、フォースプレイスという言葉があることも最近知りました。フォースプレイスとは四番目の場所です。この言葉には、いくつかの解釈があるようですが、自分の内面や精神を整える空間、自分の心と向き合える場所を指します。
そうすると、私が奉仕している教会というのはサードプレイスにも、フォースプレイスにもなり得る場所だなあとひらめきました。お参りする人同士でフラットに交流をすることができる場所、神様とも交流できる場所。そして神様を通して心を整え、自分自身とじっくり向き合える場所。
そんなことを感じていると、ふとサラリーマン時代にご霊地に一人でお参りをした、あの1日の記憶が、突然に降ってくるように蘇ってきました。すっかり忘れていた記憶です。
あの日、私は背負っているものを少しでも軽くしたくてお参りしたのではないか。何もかも脱ぎ捨てて、からっぽになりたくてお参りしたのではないか。そうして、自分の心とじっくりと向き合う時間が欲しかったのではないか。そんな気がするのです。
人は年を重ねると、知恵や分別を身に着け、経験を積んでいきます。肩書やプライド、名誉なんかもまとわり付いてきます。いろいろな既成概念に囚われます。神や仏に頭を垂れるとは、そんな自分を解き放つための営みではないかとつくづく感じるのです。神や仏との豊かな交流を通して、子どものような心に立ち返る時間のありがたさ…。
ラジオをお聞きくださっているみなさん。どうぞ、忙しない生活の中で、ほんのわずかな時間でも結構です。近くの教会や神社、お寺の前を通った時には、神様や仏様に頭を下げ、自らを脱ぎ捨ててみてください。そんな営みから、世界が少しでも違って見えるようになってくだされば、うれしいです。最後までお聞きいただきありがとうございました。
