●平和
「生きてれば、帰ってくるんだよね」

金光教放送センター
(ナレ)埼玉県さいたま市にある金光教浦和教会で奉仕する松本信子さん、93歳。父・清之助さん、母・セツさんの長女として、昭和7年に金光教青森教会で生まれ、13歳の時に青森大空襲に遭います。信子さんに、当時のお話を伺いました。
信子さんが6歳の時、お父さんが亡くなります。信子さんには弟が3人いました。お父さんが亡くなった後、お母さんは、まだ幼い4人の子どもを抱えながら、一人で家庭を支えることになりました。しかし、その生活も、次第に戦争の影響が及ぶようになります。深刻な物資不足に加え、夜になれば一切の明かりを消す「灯火管制」が徹底されました。暗闇の中で不安になる信子さんたちに、お母さんは、まだ平和だった頃の歌を歌ってくれたそうです。
(松本)私の母はね、幼稚園の先生もしてたからね、いっぱいね、歌を知ってるわけよ。西條八十とか、あの頃流行った歌をね、電気がこない真っ暗な中で、母が歌ってくれたのよ。だからあの頃の歌って、本当によく知ってる。
(ナレ)昭和20年、信子さんは青森県立青森女学校へ進学しました。しかし、戦争のさなかにあって、教科書を開いて勉強する時間はほとんどなく、学生には、馬の糞を拾い集める作業が与えられていました。
(松本)なんにも勉強しないで、馬糞を拾ったの。あそこはね、兵隊のあれがあったからでしょうか、馬がいたのよ。その馬のいるところを探して、兵舎に馬糞を届けるっていうのが、私たちの仕事でしたね。これがどうなるのかってことは聞きませんでしたね。まだ子どもだったから。肥料にもなったんでしょうよ。燃料にもなったかもしれない。とにかく運んだのは忘れませんね。
(ナレ)こうした作業が学生の日常となる中で、戦況はさらに厳しさを増していきます。信子さんの弟たちも、お父さんの実家へ縁故疎開していきました。そして、昭和20年7月28日、青森市は大規模な空襲に見舞われました。
(松本)青森は、兵舎があったからかもしれないけども、全部青森市内は焼けたんですよ。焼夷弾がバラバラ。ねっとりした油も一緒にまくわけだから、ぶわーっと燃えて。その中にね、包まれたわけですよ。
(ナレ)当時、松本さんが住んでいた地域では、家ごとに、自分で掘った防空壕がありました。そして、空襲警報などがあると、そこへ避難することが義務付けられていて、いったん入ると勝手に外へ出ることは許されていませんでした。
空襲に遭った時、信子さんはお母さんと二人で、防空壕に身を潜めていました。しかし、危険を感じ取ったお母さんは、決まりを破り、外へ出る決断をします。
(松本)母がね、「防空壕から出なさい!」って言って私を呼んで。今入ったばっかりなのに、「出なさい! 出なさい!」て言ってね、すごい勢いで私を出したの。それは、結局そこにいたら死ぬっていうこと。「この青森の市内の周りをぐるっと見てごらんなさい。全部、火に囲まれているでしょう。あの火の外に出なければ、私たちは死ぬのよ」って母が言って。私にね、一番軽い真綿の布団をね、水に浸して、そして被せて。それで私と二人で逃げたわけですよ。
防空壕から出なさいって言ったのは私の母だけ。防空壕に入りっぱなしの人は全部生き埋めで死んだの。蒸し焼きだね。隣近所全部入って、全部蒸し焼きで死んだの。だから私の母が「出なさい」って、私を連れ出したっていうのは、大変な勇気だったと思いますね。
(ナレ)それからしばらくして迎えた終戦。焼野原になった青森の町には、戦地から復員してきた兵隊の姿がありました。その姿を見たお母さんが漏らしたつぶやきを、信子さんは今でも忘れることができないと言います。
(松本)戦争終わって、ぼちぼちとね、戦地から帰ってきたのよ、兵隊さん。そしたらね、 私の母がね、他人事のようにね、「生きてれば、帰ってくるんだよね」って言ったのはね、 本当に、心の中にグサっと、子どもながらに。「生きていれば帰ってくる」。やっぱりそうやって父を待ってる母親の気持ちっていうかな。とってもね、グサっときてね、一生忘れられない。
(ナレ)「あの日、母が防空壕から連れ出してくれたからこそ、今の命がある」と信子さんは言います。戦争の恐ろしさと命の尊さを学んだその経験は、戦争をしてはいけないという、信子さんの強い信念につながっています。
(松本)一番は何と言っても戦争はしてはいけない。戦争に加担するっていうこと、それだけでもね、罪だと思います。今になって思うんです。10代の頃はそんなことまでは考えなかったんですけど、今、もう死に際になってね、やっぱり戦争っていうのは、男であれ女であれ、協力するっていうのはいけないな、って私は思って。
(ナレ)待つべき人がいる。帰るべき場所がある。それがどれほど尊く、もろいものか。母・セツさんが漏らした「生きていれば帰ってくる」という言葉。その重みを胸に、信子さんは、93歳になった今も、平和な世界を、静かに願い続けています。
