青春を戦争と共に生き抜いて


●平和
「青春を戦争と共に生き抜いて」

金光教放送センター


(ナレ)日本は、今年で戦後73年を迎えます。今日は、戦争の真っただ中で青春時代を過ごされた女性、兵庫県にお住まいの生島誉しょうじまほまれさんに、ご自宅でお話をお聞きしました。

(生島)戦前て言うてええか、何でしょう、大東亜戦争の前に、満州事変みたいなんあったんですもの。そやから私らも、割合と平和な時代が少なくて、戦争してるのが当たり前みたいなでした。それでも気楽でしたよ。自分の周りでは何にも被害がないんですからね。大東亜戦争でも、影響いうたらほんとのもう敗戦の手前ぐらいかですよってね。

(ナレ)今の日本とは違い、「戦争が日常」という中で育った生島さんは、大正15年生まれの92歳。大阪の堺市で、8人兄弟の6番目に生まれました。そして7歳の時、家族は大阪市内に移り住みました。賑やかに感じた大阪の街の中を、お姉さんたちと仲良く登校しました。

(生島)1年生で学校へ行くいうたかって、1駅ぐらい歩いて行きましたよ。40分から50分掛かった思いますよ。
 もう時間ない言うたら走ったりね。けどなんや、後ろから人が来たら怖くなったり。外歩いてても、余分なこと言うたりしたら、憲兵さんに何か言われますからね。

(ナレ)楽しい生活の中にも、どこか緊張感があったことを記憶しています。
 そして昭和16年、生島さんが15歳の時、日本はハワイの真珠湾を攻撃します。びっくりするものの、生活に大きな変化は感じられませんでした。女学生という多感な時期、今の時代と同じように、同級生たちとは、異性の話にもなり、憧れもありました。

(生島)私ら、若い男の人と話すということがないんです。そやから兵隊さんが負傷しはって、病院入ってはるでしょ。学校から病院に奉仕にちょっと行ったりしましたね。

(ナレ)大人たちが戦う中、学生時代に、それぞれにささやかながらも楽しめる時期があったと振り返ります。
 女学校を卒業した生島さんは、難波にあった印刷会社でタイプライターの訓練を受け、その後そこで働くことになりました。
 しかし、戦況は徐々に悪化していきます。そして大阪でも、空襲が始まりました。

(生島)防空壕を掘りましたわ。庭の端の方へこしらえてました。壕の上いうたら畳1枚置いてるだけです。
 空襲の様子なんて分かりません。もう怖くて、防空壕に入ったままです。その時によりますが、いてるもんは皆入るねんから、まあ狭いいうても、やっぱり5人ぐらいは入れるぐらいの大きさは掘ってるんですけどね。初め警戒警報が出るんです。それが今度、空襲警報になるんです。警戒警報が鳴って空襲になったらもう、半時間ぐらいかな、1時間も入ってなかったと思いますけどね。けどそれが何回もありました。段々と負けてくると、夜中でもあるしね。もうみんな黙って。音聞くのが怖いからねえ。

(ナレ)昭和20年3月の大阪大空襲で、生島さんの家の周りも空襲を受けました。そして、勤めていた会社も全て焼けてしまいました。19歳になっていた生島さんはその後、陸軍へ女子挺身ていしん隊として動員されます。奈良県の王寺町での寮生活が始まり、主に事務作業の任務に当たります。
 しかしこの町でも、終戦間近の7月に空襲に見舞われます。その時、事務所から逃げ遅れた生島さんをめがけ、一機の戦闘機が急降下してきました。操縦する兵士の姿が忘れられません。

(生島)お昼過ぎでしたかねえ。警戒警報で立って避難するんですけど。ほんで気がついたらもう、誰もいてはれへんので、自分一人ですねん。ほいでくっと隠れてね、事務所の中にあった井戸端のぐるりに。ほんでぱっと見たんですね。トタンの屋根なんですけども、それが外れて、ちょうど空いてました。何しろ飛行機の音が、ものすごい大きなってきたから、ぴゅっと見たら、プロペラを回した飛行機が急降下してきましたからね。その時に、姿が見えました。まあ、あれだけは忘れられんねえ。
 もう、「なるようにしかならないわ」と思うて、これこそ神さんが見ておられるんやったら、もう亡くなってもええわと思うて、「金光様」と言うてました。

(ナレ)金光教の信心を両親から受け継いでいた生島さんは、神様に一心に祈り、幸いにも機銃掃射を受けずに済みました。
 その1カ月後に終戦となり、ようやく安堵あんどすることが出来ました。その後結婚し、3人の娘が生まれました。平和を実感するのは、少し時間が経ってからでした。

(生島)今日からもう空襲がないというのが一番うれしかったんを思い出します。空襲のことを考えずにね、日々一日一日がこう、穏やかに過ごしていけるということがありがたいなあと思いますわ。「金光様ありがとうございます」がもう…本当に…。運動会とか学芸会とか、市がやるような大きな行事なんかがあると、「ああ、平和やなぁ」と思いますね。

(ナレ)今は娘の家族と暮らし、多くの孫たちにも囲まれています。
 しかし、時が経った今日も、毎日の祈りを欠かしません。今も世界の各地で起こるテロや紛争のニュースを見ては、世界の平和を祈らずにはおれない生島さんです。

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