●ラジオドラマ「坂下の小さな店で」
第5回「捨てちゃえ捨てちゃえ」

金光教放送センター
登場人物
・瀬戸内しげの (70歳) 坂下の店の主人
・瀬戸内修造 (72歳) しげのの夫 元小学校の校長
・大橋 優 (52歳) 公務員
・ミツ(声) (故人) 修造の母
しげの(M)
私は丘のふもとにある「坂下の店」と呼ばれている何でも屋をやっています。嫁いできてからもう45年も。しげのといいます。70歳です。
しげの(M)
8月となりました。
修 造:しげのー。じゃ、散歩に行ってくるぞー。
しげの(M)
夫の修造です。2つ年上の72歳で元は小学校の校長先生です。
優 :ごめんくださーい。
しげの:はい、いらっしゃーい。
優 :…あの、お水…。
しげの:お水ならば、飲めますよ。ほら、そこの水道水を。
優 :ハ、ハァ。それじゃあ…。(SE 水道水 飲む)
しげの:ここらじゃ見掛けない方ですけど…。
優 :(それには答えずに)…あの、制汗剤。置いてますか?
しげの:セ、セイカンザイ、ですか?
優 :脇の下に塗って、ほら、汗を止める…。
しげの:(弱って)ウチは、薬局じゃないんで…。
優 :あ、そうでしたね。じゃ…。(去りかける)
しげの:(慌てて)ちょ、ちょっと、ちょっと待って! ええっと…。(奥へ入って)
優 :…え?
しげの:…はいはいはい。(すぐに戻ってくる)はい、お酢よ。
優 :…お酢、ですか?
しげの:ええ。この水道水にね、お酢をちょいと垂らして…。タオルを浸して。(SE タオルの水 絞る)さあ、ふいてごらんなさい。脇の下の汗の臭いが、たちまち消えて無くなるから。ハイ。
優 :(拭く)わぁーっ。気持ちがいいー! 本当だ。何にも臭わない。あ、ありがとうございました!
しげの:お役に立てて良かったわ。…ここへは、セールスか何かで?
優 :仕事ではないんです。でも、人生の大仕事…。勇気を振り絞ってここまでやってはきたんですけれども…。(何かを言いかけて口をつぐむ)
しげの:人生の大仕事、あるうちが花よ。おばさんみたいに人生も終わりに近付いてくると、そんなものに立ち向かおうっていう気力が…。ハー、もう無くなっちゃって…。何なの? その人生の大仕事って。
優 :(弱って)あ、あのー。
しげの:ごめんなさい。いいのよ、別に…。
優 :プロポーズをしにゆくんです。この坂の上に住む、ある女性のお宅へ。
しげの:プ、プロポーズ?
優 :…お水、ごちそうさまでした。
しげの(M)
彼はそう言うと、肩を落として店から出てゆきました。
修 造:ただいまー。
しげの:お帰りなさーい。
修 造:今のお客さん。ここらじゃ見掛けん人だが…。
しげの:…あなた! お店番、よろしくっ!
しげの(M)
私は慌てて彼の後を追ってゆきました。
しげの:ちょっとー! そっちは川よー! さっきは坂の上に行くって。
優 :プロポーズは、もうやめようかなって…。
しげの:ええーっ!
優 :じゃ…。
しげの(M)
彼は坂とは反対の方へ向かって背中を丸めて歩いてゆくではありませんか。
しげの:ま、待って! 待ってー! ね、何をそんなに困っているの?
優 :僕はもう52歳になるんです。転勤だとか、親の介護だとか、いろいろあって。
しげの:そ、そうなの…。
優 :彼女、前の旦那さんに暴力を振るわれて…。離婚して…。
しげの:ご苦労をなさったのねえ。じゃあ今度は、あなたがその分まで彼女を幸せにして差し上げなきゃ。
優 :…双子が、いるんです。中学生の男の子と女の子の…。反対されたらどうしようかと思って。足がすくんで。困ったー! ああ、困った! ああ、困ったー!
ミツ(声):それを困る、私が、困る…。
しげの:ミツさんの声だわ!
しげの(M)
5年前に亡くなった夫の母親のミツさんの声が私の胸に響いてきました。
ミツ(声):しげのさん。困った出来事というのは、いつでもあるものなのよ、生きてる限りは。でもね、よく考えてみると、一番困るのは、それに困っている私自身なんではないのかしら…。
しげの:…あの、お名前を、伺ってもいいかしら…。
優 :…優。大橋優といいます。
しげの:…優さん。困った出来事はもうどうしようもないのよ。でも自分の心を変えることは…。
優 :…自分の心を、変えるのですか?
しげの:そう。困っている自分の心、それを思い切って捨てる! なかなかできることじゃないけれども…。あっ、そうだ! この石を拾って…
しげの(M)
私はとっさに足元に落ちている石を2つ拾い、彼にも持たせてやりました。
しげの:私にも困ったことがあるのよ。
優 :おばさんにも?
しげの:だからあなたと一緒にこの石、川へ投げ捨てちゃう。じゃいくわよー! 困った私にさようならー! エーイ!
優 :(釣られて)困った俺にさようならー。エーイ!
しげの:さあ、これでもう大丈夫よ! じゃ行ってらっしゃーい!
優 :ハ、ハイ。それじゃ、行ってきます。
しげの(M)
夕方になりました。
優 :ごめんください。
しげの:あら、優さん! どうだった?
優 :大成功でした、プロポーズ!
しげの:ヤッター!
優 :おばさんのおかげです。ありがとうございました。…ところでおばさんの困ったことって何だったんですか?
しげの:え? 何だったかしら…。忘れちゃった。
ミツ(声):困った自分に困らない。心の中のモヤモヤ、捨てるお稽古をいつでも忘れずに。ねっ!
音楽 (END)
