●平和
「兄を探し続けて」

金光教放送センター
(ナレ)兵庫県にある金光教駒ヶ林教会にお参りする角野修三さん。昭和8年生まれの93歳。幼い頃は、父と母、そして兄が2人に妹が2人、神戸市の武庫離宮、現在の須磨離宮公園のすぐ近くで暮らしていました。
太平洋戦争が始まって4年目の昭和20年、国民学校の5年生だった修三さん。その頃のことを伺いました。
(角野)昭和20年、1945年。その頃の日本軍は米英軍に押され、ちまたでは一般国民を巻き込んだ、本土決戦もあるのではと言われる。僕ら学童は、学校に登校しても、警戒警報のサイレンが鳴ると、その日の給食のパンをもらって、すぐ帰宅するという日がだんだん増えてきました。
昭和20年の2月14日のこと。突然、海軍航空隊に学徒動員で行った兄が、一泊の許可で自宅に帰ってきまして。その時、ま、軍刀を下げて帰宅した。家族はもう、母はかいがいしく振る舞って歓待しました。翌日に兄は、赴任先も告げず、任務地に向かっていきましたが、その時は、兄と一生の別れになろうとは思いませんでした。むしろ立派になった兄を見送り、誇りに思い、小学校の僕は学校で友達に自慢話ができると思っていたくらいです。
(ナレ)お兄さんの角野一郎さんは、23歳で出征していきました。その後、修三さんは神戸大空襲を生き延び、疎開先の岡山で終戦を迎えます。疎開先から戻って来た時のことを書いた手記を、読んでくださいました。
(角野)「なんとか西須磨の校庭で解散式を終わり、迎えの父兄と半年ぶりの帰宅を前に、頭から米軍支給の白い粉、DDTを振りかけてもらい帰路に就く。疎開生活中はしらみの退治が大変だったから。母が、迎えに来てくれて連れ立って、半年ぶりで懐かしい。誰もまだいない自宅に着いた。すぐ床の間に行くように指示され直行。白い布のかかった机に一郎兄の軍服写真と蒸し芋一皿のお供え。俺はしばらく理解するのに時間がかかった。唖然として言葉が出ない。もしかして手紙が受取人不在で返ってくるのはこのことか。現実にあったのか、信じられない。我が家家族にこれはないと思い切りたいが…。」
(ナレ)修三さんが疎開先から戻ってきたのは10月で、お兄さんが戦死したことは、その時に初めて知りました。後に詳しく分かったことは、お兄さんは津軽海峡の辺りで、戦闘機に乗っている時に、撃墜された、ということです。
(角野)8月の6日に広島に原爆落ちたでしょ、8月3日に死んでるんです。
北海道と青森県の間の津軽海峡で行方不明になった。ここで漁師がまあようけいますわね、あの、なんやら貝やとか。そういったその、あれに、遺品が引っかかった。偶然。その遺品をもらって、送り返されてきた。
そしてその遺品を私見たんに、この親父が持ってた貴重な、札入れ。特別の、皮製の札入れでしたから、もう見ただけで親父は、「あ、うちの息子に、渡した財布や」と。それに貫通した穴があると。飛行機がね落ちたんですね、バラバラになって。それの、「角野」という名刺が入っとった。もう間違いなく、うちの兄は死んだと、兄は、こんだけ財布に穴が開くぐらい爆発があって死んだんだなと、いう諦めがもう親父はついた。納得してた。せやけど私としたら、まだな、ああ、骨が上がってないということがものすごい気になってね、遺骨が。で私はまだ諦めん。どっかにまあさまようてるんちゃうか思うて、13回ここ行きましたよ。北海道やあの辺ウロウロしたけど、もう関係者誰もいない。漁師さんでね、飛行機落ちよるとこ見とった人おらんやろか言うたら、知らんなあ言うて。あの戦争で、敵機と、応戦してないかというようなことをね、ずっとね。
(ナレ)修三さんはお兄さんが戦死したという場所に13回足を運び、何か知っている人がいないか探して回りました。さらには、お兄さんに関するありとあらゆるものを集めて、丁寧に保存しておられました。写真、手紙、同級生の名簿、勲章、一緒に戦闘機に乗っていた人の名前や写真、その戦闘機と同じ型のプラモデル、同じ部隊にいた人たちの最後の寄せ書き…、集められるだけのものを、お兄さんを知る手がかりを、ずっと探してこられたのです。
(角野)あまりにもかわいそうや思てね。まあ私の間だけでもええから残してやろうと思うて集めた。こんなん貯めてどないなる言うて家で言われることがある。「まあ俺の生きとる間だけ置かして」言うて。私が全部関連した収集、収集なんですよ、これが。私で言うたら宝もんや。
23歳であの命絶たなしょうがないということで、僕はね、やっぱりこれももうほんまに無念やったやろうと。
気の毒でしょうがないわけですよ、まあ残った人間としては。国のためというか家族のためというか…、ひとつ一人命落とした。
戦争のための犠牲者やね。
(ナレ)修三さん自身、お兄さんが戦死したことは無念でならなかったことでしょう。そして、お兄さんを探しながら、修三さんは、お兄さんの無念をも、ずっと抱き続けて生きてこられたのです。
戦争を経験していない私たちこそ、そのような思いに耳を傾けていくことが大切なのではないか、そう思わされます。
