●小川洋子の「私のひきだし」その6
第2回「無言の共感」

金光教放送センター
皆様おはようございます。作家の小川洋子です。『私のひきだし その6』、本日は第2回です。
昨年、『サイレントシンガー』という小説を書きました。主人公の女性は、例えば、役場から夕方流れるドボルザークの『家路』、おもちゃの人形が口ずさむ童謡、テレビコマーシャルのBGM、歌手が練習のために聴くデモテープ、などなど、決して名前がクレジットされない歌ばかりを専門にうたう歌手です。有名になりたい、などという気持ちは一切持っていません。その逆です。森を吹き抜ける風のように、人々の心をただ静かに通り過ぎてゆくだけの歌い手でありたい、と願っています。
主人公は子どもの頃、「アカシアの野辺」と呼ばれる特殊なコミュニティで育てられました。そこでは、言葉をしゃべることを手放した人々が集まり、自給自足の生活をしています。彼らは言葉が持つ暴力的な力に耐え切れず、現実の社会から遠ざかり、無言の中で互いの気持ちを通じ合わせているのです。
ネット社会が発達し、世界中の人たちと一瞬でつながり合える時代になりましたが、私自身、便利さを上回る不穏さを感じています。顔も名前も知らない人間たちに、膨大な数の「いいね」をもらったとして、果たしてそれが本当に自分と誰かを結ぶことになるのか? 認められたい、褒められたいという願いがそれで満たされるのか?
また同時に、人をおとしめる言葉も氾濫しています。時に言葉は、信じられないほどの残酷な悪意を発揮してしまうのです。
だからこそ、声高に自分の存在を主張せず、じっと沈黙に耐える人間を、小説に書いてみたくなったのかもしれません。
本来人間は、他者との共感を求める存在だと思います。霊長類学者の山極寿一先生は著書『共感革命 社交する人類の進化と未来』の中で、こんなことを書いておられます。二足歩行を始めた人類は、踊ったり、さまざまな声を出したりできるようになった。その音楽的な踊りと声によって身体が共鳴し、共感力が生れ、やがて言葉を獲得していった。つまり、言葉より前に、まず共感があった。本来、言葉は肉声を伴い、対面でやり取りされるものであった、というのです。
ところが現代では、たとえ相手の身体を感じ取らなくても、会話が成立します。手をのばしても身体に触れられないからこそ、残酷な言葉を安易に吐くこともできてしまいます。
さて、トゲトゲした言葉まみれの世界から、自分が最も遠い場所に身を置けるのは、やはり神様に手を合わせている時です。心の中では、一日の無事のお礼を申し上げたり、心配事のお願いをしたり、お詫びをしたり、声に出さないまでも言葉をお伝えしているのですが、実感としては深い沈黙の海に包まれているような感覚です。
神様って、どんなお声をしているのだろう。ふと、そんなことを考えました。金光教の教祖様は、神様のお声を聞かれました。また、教会の先生や信者さんの中にも、そういう経験をされた方はいらっしゃいます。しかし単純に言葉が聞こえる、というのとは、少し違うのではないか、と勝手に私は想像しています。便宜上人間が作った、言葉という道具など通用しないところで、神様と人はつながっているはずです。文法や理屈や意味から解放された、静かな場所で、神様の存在だけはありありと近くに感じられる。人間同士では味わえない、真実の共感がそこにある。
信心をしていて、本当によかったなあと思えるのは、そういう時です。手を合わせてお祈りしていると、自然と身体が熱くなってきます。日常生活の中では忘れられている、魂の大事な部分がゆったりと包まれているような感じです。きっとこれが、神様の温もりなのでしょう。この温もりの中では、何万人の「いいね」も、見ず知らずの誰かの悪口も、関係ありません。神様と自分の間に、誰にも邪魔されない強い共感が行き交ってさえいれば、私は安全な場所に守られているのです。
と言っても私は決して褒められた信者ではありません。忙しさを言い訳にして、教会へのお参りもできたり、できなかったりです。教祖様は仰っています。
「目には見えないが、神の中を分けて通っているようなものである。畑で仕事をしていようが、道を歩いていようが、天地金乃神の広前は世界中である。」
小説を書いている間も、自分はやっぱり神様とつながっているのだ。そう信じられるありがたさをかみしめています。
本日はこれでおしまいです。また来週、よろしくお願いいたします。
