小川洋子の「私のひきだし」その2 第5回「神と人との関係」


●小川洋子の「私のひきだし」その2
第5回「神と人との関係」

金光教放送センター


 皆さん、おはようございます。作家の小川洋子おがわようこです。これまで『私のひきだし その2』と題し、4回にわたってお話ししてまいりましたが、とうとう今回が最後になってしまいました。最終回の今日は、金光教における神と人との関係について考えてみたいと思います。
「金光教って、どんな宗教ですか?」
 時々、そう尋ねられることがあります。とても簡単には答えられないので、一瞬、言葉を失ってしまいます。そもそも、言葉にできない何かを心で感じ取るのが宗教であり、1行や2行で表現することなど不可能なのです。
 しかし相手は分かりやすい説明を求めて待っています。私は苦し紛れに、こう答えます。
「神様と人間の関係を生み出してゆく宗教です」
 そして一つ付け加えます。
「その関係は親と子に例えられます」
 独りよがりの単純すぎる解釈かもしれませんが、金光教について何も知らない質問者は、一応これでうなずいてくれます。
 関係を作ってゆくとは、つまり、神と人との間柄がいまだ完成されていないということを意味します。何ものにも侵されない絶対的な神がまず存在し、人々を教え導くという図式には当てはまらないのです。
 金光教教典には次のような言葉があります。
「人間が神と仲よくする信心である。神を恐れるようにすると信心にならない。神に近寄るようにせよ」
 ここで注目したいのは、主語が人間になっていることです。「神と仲よくする」とは、何と人間的な情にあふれた表現でしょうか。近寄りがたい偉い神様を仰ぎ見るのではなく、仲よくするのです。
─氏子あっての神、神あっての氏子─
 教祖はこのようにもおっしゃっています。ここでも先にくるのはまず、氏子です。もっと大胆に言ってしまえば、神と氏子が並列に置かれているのです。氏子がいなければ神もない、神がいるからこその氏子。
 この関係を親子にたとえると、いっそう身近に神様をとらえることができます。人がおかげを受けてくれず苦しんでいると、神も救われない。氏子が皆助かるという神の願いを成就するために、人々は信心に励む。同時に人は、親のような神の愛によって守られている。生死を超えて神の営みに自分を委ねることができる…。
 このように神と人が分かちがたく平等な関係を結んでいると考える時、一つ、浮かんでくる小説の場面があります。それは、私がかつて読んだ小説の中で、登場人物の姿に現れ出た神の存在に、最も深く心揺さぶられた場面です。
 小説はアメリカの作家、ジョン・スタインベックの代表作『怒りの葡萄ぶどう』です。1930年代、干ばつと大恐慌に見舞われ、土地を追われた小作農のジョード一家は、おんぼろのトラックに家財道具一切を載せ、新しい生活を夢見てカリフォルニアへの旅に出ます。貧民キャンプを転々とする過酷な道中、祖父母は病に倒れて亡くなり、長男は殺人事件に巻き込まれます。どこへ行っても肉体労働によって搾取され、よそ者として差別され、暴力にさらされます。ただ唯一の希望は、長女のローズ・オヴ・シャロンが妊娠したことでした。しかし、未来の灯りとなるはずだった赤ん坊は死産でした。
 納屋の干し草の上に横たわっていたローズ・オヴ・シャロンはそこで飢え死に寸前の男を見つけます。そして、胸をはだけ、赤ん坊には与えることのできなかった母乳を、その名前も知らない男のために飲ませるのです。
 ローズ・オヴ・シャロンの行いの中に、私は親神の働きを認めることができます。彼女はその行いによって他者を救い、また赤ん坊を失った自らの哀しみを癒やします。与えることによって救われているのです。
 この場面を読んだ時、神と人が一体となり、互いに手を携えて困難な世界を救おうとしている、金光教の大事な教えを目の当たりにするような気持ちになりました。神の働き、おかげは、人を通して現れる。人がいなければ、神もその役目を果たせないのです。
 私たちはあらゆるところに神を感じ取ります。それは決して言葉に置き換えたり、分かりやすく目に見えたりしない形で、潜んでいます。人間のほうがちゃんと心でキャッチし、そのおかげに感謝する気持ちを捧げてこそ、初めて神は本当に存在できると言えるのではないでしょうか。
 以上、5回に渡って自由にお話しさせていただき、私自身、改めてまた自分のすぐそばに神様を感じることができました。聴いてくださった皆様方のお心にも何らかの形で安らかさが届いていれば、と願っております。
 本当に、どうもありがとうございました。

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