一樹君と雀

●特選アーカイブス
「一樹君と雀」

長野県
金光教諏訪すわ教会
太田真明おおたまさあき 先生


 私が奉仕する金光教の教会がある諏訪すわは、なかなか寒い所です。冬には、部屋の中でも氷点下という日が続きます。私は、平成2年にここに来ました。先代の教会長が老齢で、後継者を探していたのです。3年後に先代は亡くなり、住み込んでお手伝いをしていたお年寄りも、後を追うように亡くなりました。私は、親戚も知り合いもいない土地で一人になりましたが、寂しくはありませんでした。
 その理由の一つに、地域の子どもたちが教会に来てくれるようになったことがあります。
 きっかけは、近所の幼い子が、道の掃除をする私の着物姿を珍しがって、教会に入ってきたことです。次の日、その子のお兄さんが遊びにきました。小学2年生のお兄さんは、何日かして友だちを連れてきました。友だちは友だちを呼び、いつの間にか毎日のように、入れ替わり立ち替わわり子どもたちが遊びにくるようになりました。新聞紙を丸めたボールで野球をしたり、かくれんぼをしたりして、気ままに遊びます。たまには勉強する子もいました。私は、遊び道具を提供したりするようになり、やがて親ごさんとも親しくなり、教会の境内や近くの山でキャンプをするなど、レクリエーションもするようになりました。子どもたちはお参りにきたわけではありません。だから私は、楽しく遊んでもらえばそれでよいと思っていました。ただ、子どもたちの名前を帳面に書いて、事故やけががないように神様にお祈りしていました。そして、せっかく教会に足を運んでくれるのだから、何かの形で神様のありがたいことと祈ることの尊さ大切さを感じてくれれば、という願いを持っておりました。そうして、平成7年から今日までの間に、180人の子どもたちが教会を訪ねてくれたのです。
 最初に来てくれた幼い子のお兄さんは、一樹かずき君といいます。ここに来るようになった年のこと、一樹君は、教会の塀から落ちました。物音を聞いて駆けつけた私は真っ青になりました。塀の高さは一樹君の背丈の倍はあり、下の地面には大きな石がいくつもあります。打ち所が悪ければ大けがになったところです。しかし、一樹君は小さなたんこぶ以外は無事でした。自分が無事だったことが不思議な様子でしたが、後から思えば、あれが、一樹君が「自分を見守り助けてくれる働きがある」と感じた初めであったように思います。それから2、3年ほどしたある日、一樹君は抜けた歯を持ってきて、「どうしたらいい」と私に尋ねました。「世話になった歯にお礼を言って、人が踏まない木の下に埋めてあげたら」と言いました。すると一樹君は、自分から神様をおまつりしている所に行って、丁寧にお辞儀をしてから、歯を埋めに行きました。歯にお礼を言うということと、神様にお礼を言うということが自然に結びついている様子に、私は感心させられたのです。
 その一樹君が小学校4年生の時のことです。手に魚取りの網を持って、教会に飛び込んできました。友だちの部屋で遊んでいたら、雀が舞い込んできて、外へ逃がすために網で捕まえたのはいいけれど、網に絡まって外れなくなったというのです。私は、その時参拝していたご婦人と、雀を開放しようと奮闘しました。しかし、糸は複雑に絡まり、無理に引っ張れば羽を痛めます。にっちもさっちもいきません。「こりゃ、だめだ。ハサミで糸を切ろう」と言いますと、一樹君は友だちの網を切りたくないと言います。そう言われてみて、私はちょうど忙しい時でもあり、解決を急いだことを反省しました。そして、「どうにもならない時こそ、神様にお願いしなければ」と思い、一樹君にもそう言いました。すると一樹君は、その場で神様の祭壇のほうを向き、目を閉じ手を合わせ、一生懸命にお祈りし始めました。しかし、どうやっても網は解けません。私は諦めてハサミを取りにいきました。その時です。「あ、取れた!」と声がしました。戻ってみると、ご婦人の手のひらの上で網から外れた雀が、キョトンと私たちを見ています。突然するっと外れたのだそうです。喜ぶ一樹君に見送られ、雀は空に帰っていきました。
 金光教の教祖様は、「心が神に向かうのを信心というのである」と教えてくださっています。どれほど教えに詳しくても、形だけ参拝しても、神様の尊さの前に頭を垂れ、祈り縋る気持ちがなければ、神様のお働きを引き出すことはできないのです。私は、忙しさや雀や網などをはかりにかけ、手間や損得のバランスを考えて行動しようとしました。一樹君の心には、「雀を助けたい」、「網も切りたくない」という願いしかありませんでした。計算ずくでない一心の願いが神様に通じたように私には思われました。一樹君自身にとっても良い経験であったと思いますし、私も大切なことを学んだ思いがしました。こうした経験を経て、一樹君の心には、「祈り」の尊さが深く刻まれたのです。
 中学3年の時、おばあさんが病気で重態となりました。一樹君は、それを私のところに報告に来ると、神様に手を合わせて祈りました。おばあさんが助かった時のうれしそうな様子は忘れられません。今は高校3年生となり、週に一度くらいは教会に来て、祭壇の前に正座してよい勉強ができますようにと祈ります。
 人間を生かし見守り支える働きに祈りを捧げる中で、思いもよらない道が開けてくることは確かにあります。一樹君を見ていると、諦めずに願い続けることができるように成長させてもらっていると感じます。それが何よりありがたいのです。

(平成17年3月23日)

タイトルとURLをコピーしました