●小川洋子の「私のひきだし」その5
第4回「物語をつくる」

金光教放送センター
皆様、おはようございます。作家の小川洋子です。『私のひきだし その5』、今日が最終回となりました。よろしくお願いいたします。
さて、少々乱暴な決めつけかもしれませんが、文学の根源には孤独がある、と思います。死への恐れ、と表現してもいいのかもしれません。なぜ人は死ななければならないのか、しかもその時は、愛する人々と別れ、たった一人で去って行かなければならない。この、すべての人間が平等に背負わされている答えのない問いを、どう受け止めたらいいのか。考える手立てとして、人間は物語を生み出し、それに縋ってきたのでしょう。
臨床心理士・公認心理師である東畑開人さんの著書『心はどこへ消えた?』の中に、心と物語をつなぐキーワードになる文章が出てきます。
「物語は傷つきを核として生まれてくる。…物語るとは、傷を柔らかい皮膚で包み込んでいく営みだ。だから、物語とは本質的に傷跡なのである」
現実的な心の痛みに苦しんでいる人が、カウンセラーの助けを借りながら、散乱した生傷を一つずつつなげてゆく。するとトゲトゲしていた現実が物語の言葉に置き換えられ、生傷がかさぶたになる、というのです。心が治ってゆく過程には、現実を架空の物語に置き換える作業が必要なのでしょう。
ここで私はテネシー・ウィリアムズの戯曲、『ガラスの動物園』を思い出します。舞台は1930年代のアメリカ、セントルイスの裏町です。陰気な路地の奥にあるアパートに、一組の家族が暮らしています。父親は遠い昔に家出したきり、行方知れず。母親は自らの不満を子どもたちにぶつけるだけ。脚の悪い姉のローラは自立することができず、家に閉じこもっています。
タイトル『ガラスの動物園』は、ローラが集めているガラスの動物たちをあらわしています。彼女は母親の支配から逃れることもできず、外の世界へ出てゆく勇気もなく、孤独の壁の中にじっとうずくまっています。唯一の救いは、ガラスの動物たちです。彼らだけが彼女に温かい心を向けてくれるのです。
ある日、弟の友人、ジムが訪ねてきます。ローラは彼のことが好きなのですが、もちろん、告白する勇気はありません。そんなジムに向かって、ローラは一番のお気に入り、ユニコーンをこんなふうに紹介します。
「あかりにかざしてごらんなさい、その子、あかりが大好きだから!」
「えこひいきはいけないことだけど、その子が私のお気に入りなの」
実在しない動物であることをジムに指摘されると、
「でも、さびしいって泣きごと言ったりしないわ。角のないふつうの馬たちと同じ棚にいて、みんなで仲よく暮らしてるみたい」
ローラはガラスのユニコーンと自分を一体化させています。自分が馴染めない他者との関係を、ユニコーンが身代わりとなって馬たちとの間に築いてくれている、という物語を作り上げています。心をユニコーンと共有することで、どうにか孤独に耐えようとしているのです。
ローラがガラスの動物たちを使って、自分だけの物語を作り、脆いガラスのような心を守っている、と思うと、いとおしさが込み上げてきます。ガラスの動物たちが棚の上で繰り広げる物語が、唯一、彼女の生命線になっているのです。
信心もまた、人と神の間で物語を作ってゆくことかもしれません。難儀に出会い、神様にその苦しみをお預けする。何度も神様に問いかけ、聴こえないはずの声を聴き取ろうとする。そうして、おかげに気づかせていただく。神様が願う地点にまでたどり着き、神様の両腕に抱きとめていただく。たとえ死んでも独りぼっちではない、神様がそばにいてくださる。死んでもままよ、の心持ちになれる。
ローラがガラスの動物たちと会話を交わすのと同じです。物語に正解はありません。一人一人、異なっていて当然です。正しいか、間違っているか、理屈に合っているかいないか、という便利で分かりやすい区別から自由になって、混沌の中に身をゆだねる。そういう心持ちになれた時、他者を許すことができるようになる。
これが、金光教の信心を支えにしてきた私の実感です。信心があったからこそ、無言の物語を作りながら、いくつかの傷跡をかさぶたにすることができたのです。本当に、ありがたいことです。
私の未熟な信心の話を4回も聴いてくださって、どうもありがとうございました。何か一つでも、お心に残る言葉があれば、と願うばかりです。それでは、さようなら。
