人を責める心(テーマ:「人を責める」)


●ピックアップ(テーマ:「人を責める」)
「人を責める心」

金光教天満てんま教会
森田光照もりたみつてる 先生


 少し以前の事ですが、私は、娘が通う幼稚園のPTAの会長をさせていただいたことがありました。周りのいろんな方からの熱心な働きかけがあり、これは神様が私にさせてもらいなさいとおっしゃっているように思えましたので、意を決して引き受けました。
 入園式を無事終えて、私も会長一年生として子どもたちと共に第一歩を踏み出しました。
 幼稚園は子どもたちの夢で一杯です。素直で明るくほがらかな子どもたちの笑顔を見ていると、自分の心も自然と和んできます。
 夏休みを目の前に控えたある日の事でした。園児のA君が友達のB君と、遊んでふざけ合っているうちに倒れ、A君の顔のほおが2センチほど切れたのでした。すぐに近くの病院で処置をしてもらいましたが、その時、保護者への連絡が遅くなった事と、ほおに傷が残ってしまった事が原因となって、後で大問題に発展してしまいました。けがをしたA君のご両親が、園側に責任を取ってもらいたいというのです。私は園長先生と二人で謝罪をしに行くことになりました。
 夜、訪れますと、可愛い子どもの顔についた傷が、将来マイナスになるかも知れないと、担任の先生と園の対応のまずさを責め立て、さらに、けがをさせたB君のご両親に謝る誠意が感じられないと憤慨するのです。結局、傷が治るまで治療費を園が持ち、B君のご両親から謝罪をしてもらいたいという要望を受けることになりました。
 園長先生は誠意を込めて対応されていましたが、さらに厄介な問題が持ち上がりました。
 B君のご両親が、うちの子どもがけがをさせた証拠はない、A君が自分で倒れてけがをしたのではないかと主張するのです。事実、その時の現場を担任の先生が見ていたわけではなく、けがをした子どもの言葉を信用しての話なのです。こうなったらお互いが譲ろうとはしません。結局あいだに立つことになった私は、両者の言い分を聞くにつけて、一体どうしたら良いのかほとほと困ってしまいました。
 途方に暮れた私は、しまいには、両者の意地の張り合いを腹立たしく思い、かえって私自身が両者を責める気持ちで一杯になっていました。しかしそんな時、会長をお受けした時のことが思い出され、これは神様が私に与えてくださった役目なのだから、自分の力でしようと思わず、神様が解決してくださるのだという事を忘れてはいけない、また、私自身が人を悪く思い、責める心を持ってはいけないと、心を良いほうへ切り替えることに努めました。
 しばらく膠着こうちゃく状態が続きましたが、12月のある日、A君のお父さんから連絡があり、一体どうなっているのか、早く何とかしてもらいたいと催促がありました。その時、私は、神様に、「どうぞ、この両者が本心から話し合い、お互いに納得できるようにお計らいください」とお願いをして、A君のお父さんに、「このままではどちらも平行線で解決する見通しはありません。よかったら自分の思っている事を、お互いにすべて話し合ってみたらいかがですか」とはっきり言いました。
 すると、意外にも素直に応じてくださったのです。B君のお父さんにもご了解を頂き、いよいよ両者が会うことになりました。
 その日から、私は毎日神様に、「どうか、この度の話し合いで、お互いが理解し合えますように」と一心に願い続けました。
 私の家に両者のご夫婦が集まったのは、年の瀬も押し迫った日の夜でした。お互いに自分の子どもを弁護するため、事実関係を再確認し、それは勘違いだ、いや間違いない、などと言い争い、しまいにお互い口もきかぬ気まずいムードが漂いました。すると、突然B君のお父さんが、深々と頭を下げて謝ったのです。
 たとえ間接的ではあっても、自分の子どもが関わっていたのは確かだと思われたのでしょうか、B君のお父さんから折れてくださったのです。
 しかし、A君のお父さんは追い討ちをかけるようにまだ責めようとします。私は、思わず、「こんなに謝っておられるのですから、あなたも人を責めるばかりでなく、もっと広い心になられたらどうですか」と、たしなめるように言いました。
 ムッとした表情で、しばらく宙をにらんでいたA君のお父さんは、思い直したように、「よく分かりました。それだけ謝っていただけたら、もう結構です」と笑顔で答えてくださいました。
 一転して、和やかなムードに変わり、しまいには、うちの息子は元気すぎまして、と互いに笑いながら話し合いました。帰りはお互いに握手をして無事和解することができました。B君のお父さんが素直に謝る気持ちになってくださったことが解決への糸口となった訳ですが、私は、神様がそのようにしてくださったのだとお礼を申さずにはおれませんでした。
 後日、両方のお父さんから、大変ご迷惑をおかけしましたと、おわびとお礼の電話があり、園長先生も大変喜んでくださいました。
 お互いに、自分の立場を主張し、意地になって相手を責めてばかりいても、物事は解決するはずがありません。どちらか一方がよい心になり、素直に謝れば、相手もまた素直な良い心になれるのです。人を責める心からは、同じ責める心しか生まれてきません。
 金光教の教祖様は、「人に悪く言われても、決して悪い心を持ってはいけない。良い心を持つようにせよ」と、生涯をとおして言い続けられました。
 私は今でも、その貴重な体験を思い出しては、自分もまた人を責める心を持たぬよう、良い心になるよう努力しています。

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