捨てられた花でも(テーマ:生と死)


●ピックアップ(テーマ:生と死)
「捨てられた花でも」

広島県・金光教栗原くりはら教会
藤原隆夫ふじわらたかお 先生


 典子さんは長男が2歳の時、生後半年目の長女を劇症げきしょう肝炎かんえんという病気で亡くしました。掌中の玉を奪われ、何も手に付かず泣き明かす彼女に、実家のお母さんは「家へ帰って養生せよ」と言い、主人もその両親も心身の健康を気遣い同意しました。
 しかし彼女は、毎日赤ちゃんのお墓の花を替えると言って自分の部屋へ引きこもり、小さなお骨の箱の前から片時も離れませんでした。みんながそれぞれに悲しみ悩みました。
 その家族は、私が奉仕する栗原くりはら教会へ参拝しています。典子さんは結婚当初、お父さんから「あなたも参ろう」と言われ、宗教に無関心であっただけにびっくりしました。型にはめられそうで恐ろしく、気が重かったのですが、母親に連れられ参拝し、私たち夫婦や信者の人々と接してみて不安が解消し、安心して時々参拝していました。赤ちゃんを失って嘆き、ふさぎ込んだ彼女に参拝を勧めていましたが、何ヵ月も経ってやっと教会へ顔を見せました。
 私はどうしたら閉ざされた心が開けるか神様にお願いしながら、一生懸命、話を聞いてもらいました。彼女も教会へ行っても仕方がないと思いつつも、少しは気持ちの整理や転換ができそうで、ともかく足を運ぶことにしたようです。その日から時々、参拝が始まりました。
 わが子の死という大きなショックを乗り越えるのは大変なことでした。
 「人間は神様に生かされている、生きるのも死ぬるのも天地てんちの間の出来事である」と話したら、「神様が人間を生かすのなら、どうして私の子を死なせたのか、あのを殺して何が生かす神か」と、反抗心をあらわにして泣いたこともあります。
 私は自分の体験を聞いてもらいました。私も生まれて一週間目の男の子をメレラという病気で亡くしました。葬式の祭壇へ鯛をお供えしていて、この子はこの魚の味も知らずに死んだと思った途端、悲しみが突き上げて、泣き伏し、嗚咽おえつしました。
 私たちは深い悲しみの日々を送っていましたが、ある方から、「稲でも実らぬ実があるように、その子に与えられた命がもともと短かったのかも知れぬ。あなたが泣くとその子も嘆く。死んでもそれは天地の神様のお働きの中での出来事である」と聞かされ、子どもの死を納得したことがありました。このような話を聞きながら、典子さんも少しずつ明るくなっていきました。
 私は、彼女が子どもの頃からお花のけいこをし、それが大変好きだと聞いていたので、またお花の勉強をしたらどうかと話しました。
 彼女もそれを続けたい気持ちを持っていたようです。しかし、結婚し家庭を持ち、おけいこごとをしたいと申し出ることをはばかり、また、お世話になった師匠を変えて別の先生に習う気にもなれず諦めていました。
 ところで、私の教会には文化教室として華道部があります。そこへ来ていただくお花の先生が、たまたま典子さんが子どもの頃から師事した先生でした。それを聞いて驚き、神様が師匠に再び引き合わせてくださったと感じて、改めて主人や両親に「習わせてほしい」と頼み、家族も了解してくれ、おけいこを始めることになりました。
 こうして仕方なしの参拝が、信心とお花の両方を勉強する自ら進んでのものとなりました。もともと好きで京都の華道の専門の大学へ行っていたので上達も早く、やがて師匠から勧められ、近所や知り合いの人にお花の教授をすることとなりました。
 私は彼女にたびたび「お花のけいこは神様があなたに与えてくださった道だから、信心を抜きに動いてはいけない」と話しています。
 気晴らしにと思って再開した花の勉強ですから、信心を抜きにして考えてはいけないという意味が、初め分かりかねていたようです。しかし、華道界の先生方とのお付き合いや同門の社中の人々との人間関係の難しさに出合って、何事も神様にお願いしながら問題に対処せねばならぬと気付き、信心の大切さを本格的に理解するようになりました。
 お弟子さんが生けた花を手直しする時、いつでも一瓶一瓶、花の前に座って手を合わせ、「私の手を通して直させてください」と祈ります。
 すると、自分でも不思議なように手直しする箇所が見えてくるのだそうです。そこへ自然に手が行って、そこを直すと花が生き生きしてきます。「ほら、こうすると、この花が喜んでくれるでしょ」とお弟子さんたちに語ります。
 最近、家元社中の支部の青年部の幹部として活動し始めました。年に数回、各種の華道展があり、生徒さんの指導をして出展させ、自分も花を生けますが、毎回どう生けようかと作品の構想を練り、悩みます。頭の中が真っ白になったような時、神様にお願いしていると、材料になる花が目に留まり、作品が生まれます。
 ある時も、人のお世話で忙しくバタバタしていて、自分が生けようと花の置き場へ行ったら、人に良い花材を取られ、めぼしいものが無く、残ったものばかりを集めて苦労して組み合わせ、ごみとして捨てられていた花を拾い出して、神様にお願いしながら生けました。作品として仕上がってみると、捨てられた花が案外ポイントとなって全体を引き立て、評判になりました。「花が喜んでくれた」と神様にお礼を申し上げたことでした。
 おけいこに来る人たちの家庭の愚痴話に夜更けまで時間を取られ困りながらも、話を聞いてあげ、喜ばれ、教会で聞いた話も伝え、明るい考え方をしようと励ましています。
 生きていく気力を失っていた彼女ですが、その後に次女にも恵まれ、趣味を生かし、神様と共に生きることを知って、今、生き生きと輝いています。

(平成6年12月14日放送)

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