当たり前ではない


信者さんのおはなし
「当たり前ではない」

入田央にゅうだひさし


 私は現在、気象庁を定年退職後、気象予報士を目指す人に、天気予報の技術を高めてもらう講座の講師をしています。
 私には日常生活の中で、思わず口をついて出る言葉が3つあります。
 1つ目は、お風呂に入って湯船に身を沈めた時に出る、「ありがとうございます」という言葉です。
 お礼をするようになったきっかけは、気象観測のため富士山頂に滞在した時でした。山頂では、水はとても貴重なもので、お風呂に入ろうと思うと、屋外に積もって固くなった雪の塊をスコップでせっせと堀り出して集めなければなりません。空気の薄い所ですから、重労働で10分も作業をすると息が切れて苦しくなります。10日に1度入れれば良い方です。そのような中で頂くお風呂ですから、ドラム缶でも、例えつららが下がっているお風呂場でも、思わず、「ありがとう」と口をついて出るのです。山に登らなくなってもう相当経ちますが、お風呂に入ると、どこであっても、「ありがとうございます」と思わずお礼をしています。
 2つ目は、今から60年も前のことです。私は小学校2年生の時、結核を患い、母に連れられて電車で1時間余りの病院へ土曜日曜以外の毎日、治療を受けるために通院していたことがあります。
 病院では時々、レントゲン写真を撮り、病状が良くなっているかどうかを調べます。当時、病院へ行く時は、必ず教会へ参拝して、神様にお願いをしてから出掛けていました。その時、教会の先生がいつもおっしゃいました。「レントゲンを撮ってもらう時は、『金光様』ってお願いしなさい」と。私は小学生でしたが、通院した4カ月余り、レントゲン撮影をしていただく時は、必ず心の中で、「金光様」と唱えておりました。
 おかげで学校も1学期休んだだけで済みました。それ以来、健康診断などでレントゲンを撮ることがありますが、今でも、「金光様」とお願いをしている自分があります。
 さて、3つ目です。私は、日々頂く食物は多少の好き嫌いはありますが、食べられないものはありません。けれど、あまり量を多く頂けません。皆さんと一緒に食事をする時は、残してはいけないと思って、ちょっと無理をすることがあります。そうすると、次の日、食事がおいしく頂けないことがあります。世界には食糧が十分に行き渡らない国もあるというのに、もったいないことをしたなあ、と反省します。
 金光教では、食事を頂く前に唱える、「食前訓」というものがあります。「食物はみな、人の命のために天地の神の造り与えたまうものぞ、何を飲むにも食べるにも、ありがたくいただく心を忘れなよ」という言葉です。
 今、私は、この食前訓の内容を、「私のいのちの元はここにあるのではないか」と思っています。しかも、日々、食物を頂くことも、ましてや空気や水を思うように使って快適な生活が出来ていることも、当たり前だと思えないようになってきたからなおさらです。
 水や空気や食物は無尽蔵であるように誤解しがちです。しかし、例え無尽蔵であっても、水や空気は汚染によって使えなくなる場合があります。また、暴飲暴食をしていては、身体を壊すことになります。身体を壊せば食物をおいしく頂くことも出来なくなってしまいます。
 翻って、私たち人間は、食物が無かったら生きてはいけませんし、空気や水も必要です。どれが欠けても生きてはいけません。
 そうとすると食物が頂けること、空気や水を使って生きているということは、当たり前ではないのです。なぜなら当たり前のことが出来なくなることがあるのですから。このようなところから、私は、今、生きているということは、決して当たり前のことではないと思うようになったのです。
 日々唱えている食前訓の後段には、「何を飲むにも食べるにも、ありがたくいただく心を忘れなよ」と諭されています。これに対して、私はどうしたら良いのか考えました。
 お風呂に入る時、思わず口をついて出た言葉「ありがとうございます」は、毎日、当たり前のようにお風呂に入ることが出来ていたら、このようなお礼の言葉は出てこなかったでしょう。あの時、大変な思いをして、やっと入れたお風呂だったからこそ、「ありがとう」という感謝の言葉が出てきたのだろうと思います。
 このように、場面や言葉の表現は違っても、振り返り、考えてみますと、どれも当たり前ではないことに、60歳後半になってようやく気が付きました。
 人は毎日食べることなくしては働くことも出来ません。いや、空気がなければ一時(ひととき)としても生をつなぐことは出来ないでしょう。空気も水も食べ物も、さらには地中深くに眠る化石燃料のどれをとっても、地球とこれをとりまく大気の中で、長い年月を経て整えられたものです。まさに、人はこの大きな地球という天体の中で、その働きによって、生かされて生きているのです。
 私は、これから先、食物も水も空気も自由に使わせてもらえることは、当たり前のことではない。その当たり前でないことが今日も使わせて頂ける。今日も食事を頂ける。このことにお礼を申し、食物のみならずエネルギーや人間関係にいたるまで、「ありがとう」と感謝の気持ちが広がっていく生き方を求めて参りたいと願っています。

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