ありがとうを頂いた


●先生のおはなし
「ありがとうを頂いた」

福岡県
金光教大橋おおはし教会
小出雄三こいでゆうぞう 先生


 年齢も30歳を過ぎた自分にとって、「ありがとう」という言葉を言うことは当たり前になっていました。
 「『ありがとう』と言いなさい」と、言われ始めたのは自分が何歳頃からか覚えていませんが、気が付けば言うことが義務のようになっていました。お礼は何かをして頂いた時にしなければいけないもの、「ありがとう」は言わないといけない言葉のように思ってきました。
 自分が、「ありがとう」と言った時、何か嘘をついたような気分になることがあります。それは、「ありがとう」の一言を礼儀として呟くだけになっていたからだと思います。そして、自分が言う以上、人からも言ってもらえるのが当然と思っていましたし、言わない人は礼儀知らずだと思ってきました。
 そのような考え方でしたから、心からのお礼というのは、本当に大きな事をして頂いた時に出るものだと信じていましたし、「ありがとう」の言葉を掛けられるよりも、人間関係の向上といった結果で、人は幸せに感じるのだろうと思っていました。
 しかし、金光教を信心するようになって、「ありがとう」には本当に人を幸せにする力があると思えるようになりました。
 少し前のことですが、職場のみんなのお昼ごはんを買いに、自転車でコンビニに行くと、一台のワゴン車がすごい勢いで歩道に乗り上げて駐車してきました。歩行者もいるのに危ないなと思いながら、コンビニで弁当を買い、外に出ると、その車が路肩に乗り上げてしまっていて、タイヤが空転していました。その時の気持ちを正直に言うと、「困っているだろうけど、危ない運転しているからそういうことになるんだ、自業自得だよ」としか思いませんでした。
 その車には一人しか乗っておらず、運転手の方は周りに助けを求めるようにキョロキョロしていました。コンビニの周りには何人かの人がいましたが、誰一人として助けようとしないように見えました。
 私は、「手伝いたいけど、スーツが汚れるしな」「もともと自分がまいた種だし、向こうが頼むのが礼儀だろう」「先輩を待たせているから早く帰らないといけないし…」「若い人が何人かいるのだから、誰かが手伝うだろう」と自分が手伝いたくないことを自分の中で正当化して、その場から逃げようとしました。
 しかし、自転車のかごに弁当の入った袋を入れた時、いつも金光教の先生から言われている、「顔を上げて周りを見れば、神様が素晴らしいことを用意して下さっているのに、自ら下を向いて、素晴らしいことを見ないようにしてはいけませんよ」との言葉が、ふと心に思い浮かびました。
 その一言を思い出すと、見て見ぬふりをして、人が困っている場から逃げようとしていることが、申し訳なく思えてきました。そう思っても、気が付いた時に声を掛けていなかったので、今さら声を掛けにくいんです。やはり逃げようと思いましたが、気が付くと、本当に嫌々ながら、「後ろから車を押しましょうか」と声を掛けていました。
 車を押す手伝いをすることになっても、往生際が悪く、スーツが汚れないように気を付けながら、手だけで押していましたが、車は全く動きません。スーツが汚れても仕方がないと覚悟を決めて、肩を押しつけて全力で押しましたが、それでも動きませんでした。
 心の中で、「やっぱり手伝うんじゃなかった、困ったな」と思っていると、ずっと見ていた学生と思われる青年が、「手伝いましょうか」と声を掛けてくれました。「もっと早く手伝ってくれ」と思いましたが、礼儀から、「ありがとう」と言い、2人で押しました。すると、それまで全く動かなかったその車が簡単に動いてくれました。
 ほっとして、その青年にお礼を言わなければいけないと思い、青年のほうを振り返ると、なぜか、「ありがとうございました」と、その青年が丁寧に頭を下げていたのです。
 どうして自分がお礼を言われているのか分からず、私は「ありがとう」と言えませんでした。手伝ってもらったのだから、自分がお礼を言わなければいけないのに。喉まで出掛かった、「ありがとう」に言葉を詰まらせて、「ああ」と言葉を出すのがやっとだったのですが、その飲み込んだ、「ありがとう」が、胸の中に幸せな気持ちを広げました。
 非常に驚いた私はけげんな顔になっていたのに違いないのですが、その青年は気にも留めず、笑顔のままで自転車に乗ると去っていきました。去っていく青年を目で追っていると、今度は車の持ち主が車を止め、こちらへ走ってくるのが見えました。「来なくていいですよ」と、その方にジェスチャーしながら、自分でも不思議なほど、大きな声で、「ありがとうございました」と言っていました。相手もひどく驚いた顔になりましたが、すぐに笑顔になっていくのが見えました。
 金光教の先生が教えてくださった「顔を上げて周りを見れば、神様が素晴らしいことを用意して下さっている」。この言葉に支えられ、勇気を出して手伝ってみれば、お礼を言うべき青年に、逆に、「ありがとう」と言われました。まったく不思議な、「ありがとう」の言葉でしたが、これこそ、神様が用意して下さった素晴らしいものでした。私は何とも言えずうれしい気持ちがして、思わず車の持ち主に、「ありがとう」と言っていたのでした。
 置きっぱなしにしていた自転車に向かいながら、気にしていたスーツに付いた汚れを手ではたくと、意外と簡単に汚れが落ち、自分がつまらないことにこだわっていたように思えて、笑えてきました。人を助けてやろうとの思いでしたが、本当に助けられたのは自分でした。
 お礼を言う相手をそれぞれ間違えたようなものなのに、昔の自分なら怒っていたのだろうかと思いながら、ふと、空を見上げるとお日様が笑ったように、いつもより輝いているように感じました。

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