あきらめないで


●先生のおはなし
「あきらめないで」

金光教室積むろづみ教会
河合久子かわいひさこ 先生


 私は結婚を機に金光教にご縁を頂き、金光教の信心をするようになりました。現在は、教会長である夫と共に、教会で奉仕させて頂いております。
 結婚前の学生時代のことですが、私は、幼なじみのA子と偶然地元の駅で再会しました。
 A子は、当時、学校で幼児教育を学んでいて、その日は、幼稚園の先生になるための教育実習の初日で、これから実習先の幼稚園に向かうところでした。
 「私、子どものころから幼稚園の先生になることが夢だったんだけど、もう少しで叶うんだよ」と教えてくれたA子の顔は、希望と喜びが満ちあふれていました。
 A子は、子どものころからぽっちゃりとした体型で、よく男の子にからかわれていましたが、めげることもなく、とても優しく明るい子でした。また手先が器用で、彼女の図画工作の作品にはいつも見とれてしまうほどだったことを思い出し、幼稚園の先生は彼女にピッタリの職業だと思いました。
 2人で通学中、「実習先の幼稚園で、子どもたちと仲良く出来るといいね」などと話をし、「また明日も同じ電車で一緒に通学しようね」と約束して別れました。
 次の日、A子は、少し疲れた表情で元気がない様子でしたが、初めての実習で疲れているのだろうと思ってそっとしておきました。
 そして、一緒に通学するようになって3日目、A子から思いもよらないことを聞かされました。「私、幼稚園の外遊びの時間に誰も一緒に遊んでくれる子どもがいないの。それに、体型のこともからかわれて…。他の実習生のところには子どもたちが集まっているのに、どうして私だけなの」と、すっかり落ち込んでしまっているA子に、掛ける言葉も見付からず、私もただ呆然としてしまいました。
 けれども、私の心の中では、A子には自分の夢を諦めてほしくないという思いが湧き上がってきました。それは、私自身も、子どもの時から将来なりたい職業があったのですが、残念ながら断念せざるを得ない現実に直面していたのでした。だから、あと少しで子どもの時からの夢をかなえることが出来るA子には、絶対に諦めずに頑張って欲しいと思ったからです。
 しかし、A子は、翌日から私と同じ電車には乗ってこなくなりました。私は、A子が心配で毎日電車で通学している間中、他の時間も思い出す度に、「彼女が幼稚園で子どもたちと仲良く遊べますように、そして無事に教育実習を終えて幼稚園の先生になれますように」と願い続けていました。
 それからも毎日、A子に会えることを期待しながら、私は、同じ電車に乗って通学していましたが、ある朝、駅に着くとA子が待っていました。その表情は、先日再会した時と同じように明るく、教育実習がうまくいったんだなとすぐに分かりました。
 でも、真っ先に教育実習の話は聞きにくく、私から話を言い出すのをためらっていると、A子から、「今日で教育実習が終わるの、心配掛けたけど何とか無事に済みそうだから知らせたくて」とうれしそうに話してくれました。私も思い切って一番気になっていた外遊びのことを聞いてみると、「しばらくは、誰も一緒に遊んでくれなかったんだけど、ある日突然、一人の女の子が側に来て、『先生、一緒に遊ぼうよ』って、周りの目を気にせずに言ってきてくれて、それから女の子の友達も一緒になって外遊びをしたり、楽しく過ごせるようになったんだよ」とうれしそうに話してくれました。それを聞いて私も、自分のことのようにうれしくなりました。その後、A子が無事に幼稚園の先生になれたことも、自分の夢がかなったような幸せな気持ちになることが出来たのでした。
 この時のことを考えてみますと、おそらくA子は、とかく外見をオーバーに表現する子どもたちの無邪気な言葉に、かつて体型をからかわれたトラウマが重なって心が萎縮してしまい、彼女の明るい良いところが発揮出来なくなってしまったのではないかと思います。
 彼女自身、夢見ていた幼稚園の実習での思い掛けない展開に、本当は逃げ出したかったことと思います。それでもくじけずに頑張っているA子を見て、一人の女の子が勇気を出して声を掛けてくれ、A子も本来の明るさと元気を取り戻すことが出来たのでしょう。
 それはまさに、A子の子どもたちを大切に思う心、女の子のA子を思いやる心、それぞれが持っている「神様の心」が働いて下さった瞬間だったのではなかったのかと、その後、私は信心するようになって気付かされたのでした。そして、そこに私も祈りを通して関わらせて頂いたことが、本当にうれしくありがたいことだと思いました。
 当時、特定の信仰を持っていなかった私ですが、本気で人の助かりを祈らせて頂いた初めての体験でもありました。
 金光教には、「人間であったら、気の毒な者を見たり難儀な者の話を聞けば、かわいそうになあ、何とかしてあげたらと思うものである。神の心は、このかわいそうの一心いっしんである」という教えがあります。
 けれども私たちは日常生活において、ついこの神様の心を忘れてしまいがちです。皆が、そして私自身も、いつも神様の心でいられたら、こんなに幸せなことはないと思うのです。

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