●第2回
「かんべむさしの金光教案内8」

金光教放送センター
おはようございます。『かんべむさしの金光教案内』、先週は教祖さんのお話をさせていただきまして、その中で、金光教の教典は、教祖さんや信者さんたちのエピソード集なのだと申しました。一方、その膨大な記録のエッセンスをまとめた、『天地は語る』という本も出ておりまして、片手で持ってパラパラッとできるくらいの、手軽な本です。
そして、「神と人間」とか「信心の実践」とか、そんな章立てのもと、合計400項目のお話や教えが短くまとめられておりますので、今朝はその中から、私が「なるほどなあ」と得心したり、「いい教えだな」と思った、その事例を、いくつか紹介させていただきます。
順不同でまいりますが……
『神へは何でも願え。神は頼まれるのが役である』
とにかく願えというのは金光教の基本的な教えの一つでして、神は人間からいろんなことを頼まれるのが役目なんだから、何も遠慮することはないぞという、ありがたい教えです。私は若い時代から、ああなりたいとかこうしたいとか、願いの多かった人間ですから、この教えに安心もさせてもらえました。そして次は……
『信心といっても別にむずかしいことはない。親にものを言うように、朝起きたら神にお礼を申し、その日のことが都合よくいくように願い、よそへ行く時には、行ってまいりますと言ってお届け申しあげよ。そして帰って来たら、無事で帰りましたとお礼を言い、夜寝る時にはまた、その日のお礼を申して寝るようにすれば、それで信心になる』
誠に優しい雰囲気の教えでして、全くの初心者でも、「ああ。それくらいなら、自分にもできるな」と、安心できるんじゃないでしょうか。これはたぶん、そういう段階の人が教祖さんに、「信心というのは難しそうですけど、どうすればいいんでしょう」と問いかけて、教えてもらったんでしょうね。そうかと思いますと……
『神を拝礼するのに、別に決まりはない。実意丁寧、正直、真一心がかなめである。日々生かされているお礼を申し、次に、お互い凡夫の身で、知らず知らずにご無礼、お粗末、お気障りなどをしている道理であるから、それをお断りおわび申して、それがすんだら、身の上のことを何かと実意をもってお願いさせてもらうがよい』
凡夫というのは、どこにでもいるごく平凡な人間という意味ですが、これは神様の拝み方を、ちょっと詳しめに説明した言葉ですね。「別に決まりはない」というのが私は好きですが、決まりはないけど、お礼・お詫び・お願いという三つの要素は入れるようにしなさいという教えですね。 そして、次はかなり厳しいんですけど……
『神を本気で拝むには、柏手を打って神前に向かったら、たとえ槍先で突かれても後ろを振り向いてはならない。物音や物声を聞くようでは、神に一心は届かない』
私はこの教えを初めて読んだ時、「ううん。難しいなあ!」と、思わずうなっておりました。金光教は穏やかで優しい宗教ですけど、奥へ進めば厳しさも出てくるようで、「槍先で突かれても振り向くな」とか、周囲の音や声が聞こえてるようでは、一心になって拝んでることにはならないぞとか、峻厳と言いますか、至難の技と申しますか、私にはとてもできることではありません。ですから次には、私にもできそうな、穏やかで優しい教えを紹介いたしますが……
『家族一同、仲よくして信心せよ。彼岸もちなどをこしらえる時に、子供がそばでくれ、くれと言うのを、神に供える前はいけないと言って頭をたたいたりしては、神は喜ばない。先に子供にやって喜ばせておいて、それから神に供えてくれれば神は喜ぶ』
ね。穏やかで優しい雰囲気でしょう。私の好きな教えの一つでして、いかにも昔の田舎の家らしい情景が、目に浮かびますね。そして、子どもを先に喜ばせてくれたら神も喜ぶという、これは何度読んでも、本当に、「ええ神さんやなあ」と思います。
また一方、高齢化社会になってる現在も、そのまま受け入れられる教えも載っておりまして……
『元気を出して信心せよ。年をとったのを苦に病むことはない。年をとっても一人前にできるのは信心だけである。信心していると、年を重ねるほど身に徳がついて、神がかわいがってくださり、若い者が大事にしてくれるようになる』
昔と今とでは、老人とみなされる年齢が大きく違ってますが、現在で言えば八十代、九十代の方々に、教えてあげれば喜ばれるんじゃないでしょうか。私もあと2年で80歳ですが、信心をしておれば、「神様にかわいがってもらえ、若い者が大事にしてくれる」というのが、うれしいじゃないですか。ちなみに、この『天地は語る』は、英語版も出てるんだそうです。英語圏の人たちに、どんな読まれ方をしてるんでしょうね。
はい。それでは来週は、教祖さんから直接教えを受けられた、昔の偉い先生のお話をさせていただきます。ありがとうございました。
