●信者さんのおはなし
「離島の声を受け止めて」

金光教放送センター
空港を飛び発った飛行機は一路、大城ヨシ子さん72歳が待つ沖縄へ。やがて着陸態勢に入ると、眼下にはエメラルドの海にポツンポツンと小島が見えてきました。
会場に到着後、早速大城さんのお話を伺うことにしました。大城さんは9人兄妹の2女として生まれ、4歳の時に家庭の事情で横浜の親せきに預けられました。やがて太平洋戦争が始まり、防空壕に逃げ込む日々を送ったと言います。
戦後しばらく経って、10歳になった大城さんは沖縄に住む両親の元に帰りました。両親と別れた時の寂しさを聞いてもらいたくて、幾度か「お母さん」と声をかけたものの、一向に構ってもらえませんでした。
子どもの大城さんにとっては、こうした出来事をとおして「心の内は人に明かせないもの」だと子ども心に理解してしまいました。以来、やるせない思いを胸に秘めたまま年を重ねていきました。
でも、あとになって振り返ると、お母さんもまた、戦渦にまき込まれ、食糧難の中多くの子どもを食べさせていくことは大変だったろうなあ、と思うようになりました。その頃のことに思いを寄せながら、「あの時はねえ」と語る大城さんの表情には切なさが感じられました。
やがて大城さんは結婚し、夫婦で懸命に働きました。でも生活は厳しいものがあり、話し合いの上、1歳の娘を連れて夫とは別居することになりました。そのような大城さんを心配した周りの人が、親切心であちらこちらの宗教に誘ってくれました。好意を受けて、その都度お参りをしたのですが、どこを訪ねても心に響くものが無かったそうです。
やがて保健師となった大城さんは、家庭の問題を抱えたまま仕事に励みました。そのような中にも、「問題を抱えているからこそ、人の悲しみが分かるのではないだろうか」と、ふと思ったそうです。
こうした思いを抱いた中で、昭和46年のある日、金光教の信心をしている職場の方からの誘いを受けて、初めて出向いたのが金光教那覇教会でした。神前でお祈りしている先生の姿を目にした瞬間、「ああ、ここだ! 私が来るところはここだったんだ」と、胸が熱くなったと言います。大城さんは、今まで胸の中にずっと抱え、人に語れなかった思いを、先生に初めて語りました。その時、何時間もじっと耳を傾けて下さった先生の温かさが、とてもうれしかったと言います。大城さんの心が開かれ、明るさが増した頃から夫婦の関係も家庭もだんだんと整っていきました。
沖縄では、保健師の宿命とも言える医療過疎の離島勤務が課せられます。主な業務は、島民の巡回診察の補助や健康指導を始め、大変な仕事量だそうです。この荷が重い離島勤務の話が、家庭を持つ大城さんにも寄せられて来ました。先生に相談すると、先生はすぐに神様へお祈りをして下さいました。お祈りの後、先生は「この地に差し向けられた私の使命は、戦中戦後と大変なご苦労をかけた沖縄に、真の平和が訪れますようにと祈り続けていくことです。大城さんにもきっと神様の使命があるはずですよ」と、日頃から話をされている意味を込めてのことでしょうか、「人すべてに神の使命あり、島いずくにも神の光あり」と色紙に書いて、大城さんに手渡して下さいました。「そうだ! 大変な離島勤務だからこそ、神様が私に願いを掛けておられるのだ」と決心して、色紙を胸に抱き、単身、島に赴きました。
ところが赴任してみると、現実の医療事情は想像以上に遅れたものでした。加えて、島民にとって思い出したくもない沖縄戦の悲しさや、離島対策の遅れに伴う生活の貧しさには厳しいものがあり、中には「島のつらさがよそ者には分かるものか」と心を閉ざす方もありました。
こうした状況を先生に相談する内に、今日まで自分の悩みをひたすら受けて下さった先生の姿を思い起こしました。そして大城さんは、足繁く家々を訪ね歩き、小さいことにも真剣に耳を傾けていきました。すると次第に心を開いて、貧しい生活から起きてくる家族の問題を相談しに訪れる方も現れてきました。その都度、行政に掛け合いながら解決していくうち、瞬く間に2年の任期を迎えました。ようやく島の人たちも心を開いてきた頃でもあり、心残りに思われた大城さんは、先生に相談をして任期を1年延ばして島に留まりました。やがて、その任期を終えた大城さんが島を離れる日、迎えの船を待つ桟橋には「お世話になりました」と別れを惜しむ島民の姿がありました。
現在では保健師を退いて久しくなりますが、「神様の大切なお祭りには、嫁いだ2人の娘に3人の孫も揃って参拝してくれます。賑やかですよ」と、実に幸せおばあちゃんです。でも信心に緩みは見られません。3人の孫たちがこれから先、親にも言えない問題に出合った時には、「さあ、私の出番」と、しっかり構えておられる大城さんには、信心のたくましさを感じました。
