不思議な通知


●信者さんのおはなし
「不思議な通知」

金光教放送センター


 一通の通知が、久美子さんのもとに届きました。それは、県庁の職員への採用試験を受けに来るように、という通知でした。久美子さんは、そんな申し込みは、していません。家族や知り合いに聞いてみても、心当たりのある人はいませんでした。

  久美子さんは、昭和16年に、神戸で生まれました。太平洋戦争が始まった年です。お父さんは戦死し、お母さんは、故郷である現在の山形県天童市に疎開し、必死に働いて、久美子さんとその妹を育てました。

  久美子さんは、高校を卒業する時、銀行に就職が決まったのですが、父親がいないという理由で、突然内定を取り消されました。高校の先生のつてで建築会社の事務の仕事に就いてほどなく、山形県の県庁から職員採用試験の通知が届いたのです。

 不思議に思いましたが、とにかく、指定の日時に試験を受けました。その結果、県庁ではなく、県が管理する宿泊施設で働くことになりました。それが、長い長い奮闘の日々の始まりでした。

 出来たばかりの、その施設。事務職員は久美子さんだけ。帳簿付けを始め、一切の事務をこなさねばなりません。予約を受け付け、調理場と相談して料理の材料を手配し、部屋を回っては備品を確認して補充や整理をします。お客さんからの苦情を聞き、靴磨きを始め、ありとあらゆる雑用をこなし、夜中になって、ようやく帳簿を付ける時間が取れるのです。土日に休むなど考えられません。

 しかし、久美子さんを悩ませたのは、仕事そのものより、人間関係でした。仲居さんをしている女性の同僚は、なぜ久美子さんだけが事務職なのか、とねたみましたし、男性職員からも、疎まれました。それが、久美子さんが、金光教の教会に足を運ぶきっかけとなったのでした。

 久美子さんのお母さんは、苦しい生活の中で金光教に出合い、毎日教会に参拝していました。久美子さんも参拝を勧められていましたが、それまでは、参拝する気になれなかったのです。教会に参拝した久美子さんは、額に入ったみ教えのようなものに目を留めました。そこには、こう書いてありました。「おかげは和賀心にあり 今月今日で頼めい」。久美子さんは、これを見て、ハッとしました。「そうか。おかげは、わが心から生まれるんだ。自分の心を変え、自分で何か動きを始めていかなければ、問題は解決しないんだ」。よし、何か取り組みを始めよう、と決心した久美子さんは、金光教の教典に書かれたみ教えを、一日一カ条ずつ、毎日半紙に筆で書き写すことを始めました。

 書き写したみ教えは、いつしか久美子さんの心に染み込んでいきました。仕事中に、やり切れない思いになった時、ふとみ教えが浮かんでくるのです。「人のことを先に願え」「人間を軽く見るな。軽く見たら、おかげはない」。ああ、自分は、自分につらく当たる人のことを、心で責めていたなあ。それでは駄目なんだなあ。相手のことを願わせてもらおう。久美子さんは、それから、譲れるところは譲って、相手を立てるよう務めました。また、支配人に談判して、女性の職員が交替で事務の仕事を手伝えるようにしました。これは、結局、在庫管理をみんながしていくことに繋がり、営業成績を大きく伸ばす元にもなったのです。

 こうして、仕事の内容は充実していきました。しかし、勤務は、あまりに厳し過ぎました。久美子さんは、何度も「辞めたい」と、申し出ました。1度目は、20歳の時、2度目は、22歳の時です。花嫁修業に裁縫を習いたいからと理由を話すと、支配人は、「うちから習いに行かせるから辞めるな」と引き留めました。3度目は、25歳の時です。結婚した直後で、主婦としての務めを果たしたいと話しましたが、やはり支配人は許してくれませんでした。それどころか、支配人は、久美子さんを役付きにするよう、県庁に掛け合っていたのです。女性が管理職になることなど思いもよらない時代のこと。また、30前で役付きというのは前例がありませんでした。しかし、支配人は、辞表を胸に上層部に掛け合い、久美子さんは、主任心得という役職に就きました。続いて、主任、係にに、そして最後は課長にまで昇進していくのです。

 初め宿泊だけだった業務は、やがて、結婚式や法事などにも広がりました。引き出物、衣装、送迎など、久美子さんの仕事は、忙しくなるばかりでした。久美子さんは、お客さんにとって、唯一の窓口であり、頼りになる相談相手でした。心を込めて結婚式のお世話をした人から、何十年かたって、「久美子さん。久美子さん。孫が出来たのよ」と赤ちゃんを紹介されたとき、久美子さんは、しみじみと喜びをかみ締めました。

 4度目に辞めたいと言ったのは、昭和の終わりごろ、施設の大きな改修があった時です。すっかり長い付き合いとなった支配人は、今度も辞めさせてくれませんでした。

 結局、久美子さんが退職したのは、平成8年、58歳の時でした。それから1年後、40年勤務した施設は、静かに閉鎖されたのです。

 一通の不思議な通知は、思ってもいなかった人生への扉を開いてくれました。そこで久美子さんは、つらさや悲しみも味わいながら、しかし起きてくることから決して逃げず、信仰に支えられながら精いっぱいの努力をしました。

 その結果、多くの人から喜ばれるような働きを現すことが出来たのです。そして、仕事の厳しさと向き合う中で、細やかな思いやりや、問題に取り組んで解決していく生き方を身につけていったのです。そんな久美子さんの姿は、今、娘さんや、周りの人たちの手本となり、大きな励ましとなっています。

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