●小川洋子の「私のひきだし」その6
第1回「人間の親神さま」

金光教放送センター
皆様、おはようございます。作家の小川洋子です。今年もまた『私のひきだし その6』と題し、金光教の信心にご縁を得た私が、作家活動の中で感じたあれこれを、お話しさせていただくことになりました。よろしくお願いいたします。本日はその第1回です。
最近興味深い本を読みました。角田光代さんの『神さまショッピング』という短編集です。ここには、切実な願いを抱えた人物たちが、スリランカ、ミャンマー、香港、インド、モンゴル、京都などなど、神さまを求めてさまざまな聖地を旅する小説が八編収められています。
この中に、「父親をどうか殺してほしい」という願いをかなえてもらうため、女性が一人、「清濁併せのむ神」として知られるスリランカの寺院にお参りする話『神さまに会いにいく』があります。家族を見下し、娘の学費さえ払わなかったうえに、万引き癖のある父親を、彼女は憎み続けてきました。と同時に、父親の中にあるどす黒さが自分の中にもあるかもしれない、と怖れを抱いています。
はるばる目指す神殿までたどり着いた彼女は、両手を合わせ、目を閉じ、ここでなら、どんなに醜いことを願っても許されるのだ、と自分に言い聞かせます。しかしどんなに頑張っても、結局、一番求めていたはずの父親の死を、祈ることはできませんでした。
その時、彼女の心に残ったのは後悔ではありませんでした。願わなかった時間の中で、自分は神さまに出会ったのだ、との感慨を得ます。
憎しみは一方通行ではなく、必ず、形を変え、自らに戻ってくる、たとえ願い通りに父親が死んだとしても、自分が救われるわけではないと、彼女はちゃんと分かっていたのです。彼女に必要なのは、父親の死ではなく、邪悪な祈りを神さまに預けることだったのかもしれません。
もし主人公が、金光教の教会にお参りに来たとしたらどうなるだろう、と私は想像しました。天地金乃神様は、父親に死んでほしいと苦しんでいる彼女を、本気で心配してくださるでしょう。心が濁った水で満杯になってのたうち回る信者さんを、決して否定せず、命令せず、ただそっと大きな腕で抱き留めてくださるのではないか、そんなふうに思うのです。
金光教の神さまにとって信者は、いとし子だからです。親神さまにとって、つらい思いをしている子どもほどかわいいのではないでしょうか。しかもその子を苦しめているのは、父親への憎しみではなく、自己嫌悪なのです。
もう一つ大事な点があります。金光教の教会には、神さまにお取り次ぎをしてくださる先生がいらっしゃいます。その先生の前では、何を取り繕う必要もありません。むしろ正直であればあるほど、神さまとの距離は近くなります。
金光教ではよく、あいよかけよ、という言葉が使われます。その意味をどう説明すればよいのか、実際、私には自信がないのですが、神さまと人間が、一方通行ではなく、お互いに慈しみ合う関係を築いてゆくこと、そんなふうにとらえています。
ですから、信者が救われていなければ、神さまも救われない。父親を殺したいという思いに苦しんでいれば、神さまが心を痛める。そう考えれば、行き止まりの真っ暗な洞窟に、新たな通り道が見つかる気がするのです。
角田さんの小説の主人公は、最終的に、神さまの存在を意識することで、一歩前進します。もちろん、問題が解決したわけではありません。どんな宗教であれ、解決が信心のゴールではないはずです。小説には、スリランカから帰った主人公がその後、父親とどういう関係になっていったのかは、書かれていませんが、きっと何かしらの変化は生じたでしょう。憎しみは消えずとも、それを納めておくための心の小部屋の鍵を見つけたかもしれません。
その小部屋を開けたり閉めたりしているうちに、いつか彼女に、想像もつかなかった発見や驚きが訪れてほしい。父親との関係のおかげで、自分の人生に潜む、新たな土地を開拓してほしい。と願わずにはいられません。
改めて、信心には時間が必要だなあ、と思わされます。AIに尋ねて、すぐさま的確な回答を得られるようなわけにはいきません。神さまに愚痴をこぼしたり、見放されたと思って絶望したり、いやいや、そんなことでは駄目だと自らを戒め、ひたすらに拝んでみたり、ジグザグ迷っているうち、ふと気づくと、思いも寄らない小さな偶然に出会う。ああ、これがおかげだと、心の底からお礼が言える。神さまがしてくださることは、いつでも私の想像など軽々と超えています。
本日はこれでおしまいです。また来週、お聴きいただければ幸いです。
