●信心ライブ
「母と介護と祈りと私」

金光教放送センター
(ナレ)おはようございます。今日は、金光教教学研究所にお勤めの大林浩治さんが、令和6年5月10日、金光教本部でお話しされたものをお聞きいただきます。
この数年間、浩治さんは、普段は職場のある岡山県浅口市で過ごし、週末には兵庫県尼崎市にある妻の実家に帰るという生活を続けています。というのも、妻の和美さんが、母親の介護から手を離せないのです。
浩治さんにとっては義理の母親ですが、米寿を過ぎて認知症が進み、また、いろんな持病も抱え、特に肝臓が弱ってしまっています。
令和6年3月のある日、意識が朦朧として救急車で病院に運ばれました。幸い、点滴をしてもらって、事なきを得たのですが…。
(大林)その時に診断書を見せてもらったのですが、症状のところに、「終末期肝硬変意識障害」って書かれていました。「終末期」という言葉がどうしても目に留まります。お医者さんからのメッセージなんですね。「そろそろ覚悟しなさいよ」とそんなメッセージが込められています。
それからしばらくしてまた調子がおかしくなって、一週間、毎日点滴を受けることになりました。お医者さんが言います。「これで良くなればいいんですが、効果がなければ点滴自体取りやめましょう」と。「覚悟を決めて最期まで家で過ごすか、どこかに入るか」と、そう申されるんですね。
そんなことで、目の前のこの状態が終末期なのかと、もう否応なく理解させられることにもなってます。そんな中、妻は言うんですね。「こんなこと思うのもダメだけど、正直言うと、そう言われてほっとすることもあるんだよね」と。いつまで続くか分からないと思うと、やっぱりきついんです。区切りを知らされたからこそ、それまでの間、いいお世話をしようと、そんな思いも新たに生まれると。
今、一日のほとんどがベッドの上にいるようなことになっていますが、ほんのちょっと前は、また随分違ってたんです。今年の初めはまだまだ元気でした。
これも今年の正月ですが、母は私の娘、孫ですね、お年玉を渡していました。その時に私にも用意したっていうんですね。「ええ、いいよお母さん。もう本当に。お金なくなるで」と言ったんですけども、いやいやと手を振っています。妻が笑顔で「お母さんのメッセージがあるよ。裏見てみて」って言うんですね。で、ポチ袋の裏を見ると、たどたどしい文字が書いてありました。
「浩治さん、いつも心の中に受け入れてくださりありがとう」、こう書いてあったんですね。わあーっと思いました。神様すごいことなさるんだなと、こんなに感謝されているなんて、というように驚きました。文字で実際に目にしますから、じーんと来るんですね。
私の正直な思いとしては、ほとんど申し訳ないっていうことです。母が言うように、受け止めることなんてできてるかって言うと、とてもできてません。中途半端です。でも母からすると、「そんなことはない」と。これは母の偽らざる思いだっていうことも伝わってきます。もう絶大な信頼です。それを言葉にしてくださるんですね。包み隠さずの思いです。「私はあんたのこと信じてますよ」と、そういうことです。
介護は妻のほうが、それこそいっぱいいっぱいになるぐらいしています。自分はどうかと言うと、何もできてないですね。そばにいて、いろいろと様子を見るぐらい。テレビ見ながら母の大好きな阪神タイガースの話をしたり、そんなことで済ましてます。
ええ…、妻が言ったことあるんです。コロナ禍で病院へ入院するのも大変な時期、看護師さんも忙しく動いていて面会もできないような中でのことでした。「現場はいつも人手が足りない。見てても大変。お医者さんは『今後のことも考えるように』って言ってくれるし、病院の相談看護師さんからは『看取りもできるこんな施設ありますよ』と紹介されたんだけど、結局お母さんはまだ多少なりとも動けてるんだから、まあありがたいことに会話もまだできてるし、家で過ごすほうが心の健康にもいいんだよね。もちろん意識もなくなって、自分たちももうお手上げになったら、その時は考えないといけないけど」
これを聞いて私は、まるで母の介護を神様に捧げる御用として見ているんじゃないか、そんなことを思いました。義理や責任感、覚悟を強いるような、そんなものの言い方じゃないんですね。この機会に自分に与えられた贈り物のように、喜ばしい仕事、誇るべき仕事、どっかでそんなことを感じて言ってるようです。
母と共に生きたその事実は、自分の人生においても深みを与えてくれる、格別な意味を見出すことができるものでしょう。介護は時間をかけて相手との関係を築き、また親子なら親子のそれまでの関係を見直すこともさせてくれます。それまでの自分の人生に、決して得ることがなかったであろう豊かさや深みを与えてくれます。
介護を必要とする人は、確かに足腰も弱かったり、いつも何がしかの支えが必要な弱い人です。でも気づかされるんですね。そんな弱い人の介護を通じて、人としての自分が問いかけられ、育てられ、気づけば逆に支えられていたと。介護を通して人々はどうあればいいか、社会はどうあればいいか。祈りや信心のこととして私たちに向き合わせてくれる。そして時代はますますそんな介護を必要としています。
(ナレ)「支えるつもりが、逆に支えられていた」。浩治さんは、そう表現します。力の弱い人が、その弱さゆえに誰かの支えとなる。立場の弱い人が、その弱さをもって何かを問いかける。そのようにして、社会は鍛えられ、強められていくのでしょう。
人が、人を人として大切にし、人に人として大切にされる。そんな世の中でありたいと願わされます。
