●第3回
「かんべむさしの金光教案内7」

金光教放送センター
おはようございます。かんべむさしの金光教案内。3回目の今朝は、金光教で使われてる、神様を拝む詞、賛える詞のお話をさせていただきます。
拝む詞で「拝詞」、賛える詞で「賛詞」。「し」や「じ」は、言偏に司と書くあの「詞」ですが、『神前拝詞』とか『神徳賛詞』とかいろいろありまして、わかりやすく言いますと「祝詞」ですね。
祝詞は皆さんも、結婚式とか、お宮参りとか、家を建てる時の地鎮祭とかで、神主さんに上げてもらわれた方も多いでしょう。
そして金光教は、明治時代になってからは政府の政策で神道の管轄下に置かれて、神道金光教会と称しておりました。それで、「かけまくもかしこき」とか、そういう言葉で始まる神道の祝詞を上げてまして、明治33年に金光教として独立してからも、戦前はそれが続いてたんですね。ですから、戦後に作られた拝詞や賛詞も、その流れを汲んでるわけです。
で、私は中年になってから金光教に御縁を頂いたんですが、まずはどんな様子なのか、大阪市内にある玉水教会という大きな教会へ、何度も偵察に出かけてた時期がありました。
そしてある時、大勢の信者さんたちが声を揃えて何か唱えておられるのを聞いた時には、「正式に通うとしたら、こんなこともせんといかんのか」と思っておりました。祈りでも何でも、私は1人で黙ってやりたい人間ですから、敬遠したい気持ちになったんですね。
しかしその後、金光教は非常に自由な宗教で、嫌だったら、そういう場には参加しなくてもかまわないのだと分かって安心しました。そして信奉者になり、教会へ通ううちに慣れてきて、いつしか敬遠したいという気持ちはなくなりました。そして現在は、「ええもんやな」と思っております。仕事柄もあって、文語体の引き締まった文章やリズムは、自分にとって心地良いものですからね。
さあ。そこでその拝詞や賛詞から、なるほどなあと思う部分や、好きな言葉を紹介させていただきますが。
神様の前で上げる『神前拝詞』には、「天地に生命ありて万の物生かされ 天地に真理ありて万の事整う かくも奇しきみ姿大いなるみ働きを 天地金乃神と仰ぎまつりて称えまつらん」、という部分があります。
「まこと」は、漢字では真理真実の真理と書かれてますが、これはつまり、この宇宙が整然として成り立ち、地球上のすべての生き物が生存できてるのは、根源に大いなる意思の力があるからこそで、その偉大な意思の働きと、その現れである大宇宙の姿を、神と仰いで称えていこうではないかと、そう言ってるわけですね。
そしてこの捉え方は、古今東西いくつもの宗教が教えてきたことでもありますから、私は、「金光教は単なる民間宗教にとどまらない、普遍宗教のひとつなんだな」と、神前拝詞のこの部分で確認させてもらえました。
また同じ『神前拝詞』には、神様の縁、「神縁まことに不思議にして 今この道に出で会うを得たり」という部分もありまして、これは私は自分のこととして、「本当にそうだなあ」と実感しております。宗教にも金光教にも何の関係もなかった人間が、人生の道筋を右だ左だと歩んできて、40代の後半になってから信奉者になったんですからねえ。
神様の徳を賛える『神徳賛詞』には、「神慈しみは万代に遍く満ちて果てしなく」という文言があります。
「かん」は「神」で、その慈愛の心は、時間と空間を超えて満ちわたっていて果てしがないと、これもスケールの大きい教えですが、そのあとの、「神量らいは奇しくて人の思いぞ及ばざる」という部分、神様のはからいの見事さ、素晴らしさは、人間の考えなどはるかに超越してるのだという、この言葉には「そうであろうなあ」と思います。「まさにそうなのだ」と断言できないところが、私の信心のレベルを示してるわけで、お恥ずかしいんですけどね。
先祖の方々の生前の働きを賛えて感謝する『霊前拝詞』。御霊前で上げるその拝詞は、「家内むつび和らぎ立ち栄ゆべく守り導き幸えたまえ 守り導き幸えたまえ」と、言葉の繰り返しで終わります。
「我々子孫たちが仲良く親しみ合って、家が栄えていきますように、御先祖の皆様方、どうか守り導いて、幸せをもたらしてください」という、この世からあの世への、謙虚でおだやかな願いですね。
はい。というわけで、拝詞や賛詞の、好きな部分を紹介させていただきましたが、宇宙の成り立ちから我々の生き方や幸せ、さらにはあの世の御先祖様への願いまで、扱われてる世界は、間口が広くて奥行きが深いなあと、改めて感じました。
それでは来週は、幕末時代、教祖さんに対しても面と向かって遠慮なく批判したという、斎藤重右衛門という、豪放磊落な先生を紹介させていただきます。ありがとうございました。
