小川洋子の「私のひきだし」その5 第2回「未来の約束」


●小川洋子の「私のひきだし」その5
第2回「未来の約束」

金光教放送センター


 皆様、おはようございます。作家の小川洋子おがわようこです。『私のひきだし その5』、本日は第2回です。
 さて前回は、「気づく」という体験が心を豊かにし、同時に信心を深めることにつながる、そんなお話をさせていただきました。しかし、気づくためには時間が必要です。瞬間的にパッと感じ取れるのはむしろまれで、苦悩を抱えながら様々な経験を経たのち、
「ああ、当時は気づかなかったけれど、あの事にはこんな意味があったのか」
 と、長い時間をかけて分かってゆく。そういうケースのほうが圧倒的に多いと思います。
 さて先日、東京でカウンセリングルームを開設している臨床心理士・公認心理師の東畑開人とうはたかいとさんと対談する機会がありました。東畑さんは著書の中で繰り返し、「時間」について言及なさっています。例えば著書、『雨の日の心理学 こころのケアがはじまったら』には、こんな言葉が出てきます。
「時間は弱い万能薬」
 クライアントさんは、苦悩や混乱や悲しみで心があふれそうになった状態で、セラピーにやって来ます。セラピストは彼らの言葉に耳を傾けます。その時互いの間を行き交っているのは、単なる言葉ではなく、心なのだ、と東畑さんは言います。自分の心に収まりきらなくなったものを、しばらくの間、セラピストの先生に預かってもらう。他者の心を使って消化してもらう。その間に、消化されたものが、心の中に置いておきやすい形に変わる。つまり最強の聴く技術は、「また話そう」、これに尽きる、というのです。時間を稼ぎ、しのぐのです。
「未来の約束があるならば、それまでの間は一人じゃない」
 東畑さんはそうも書いていらっしゃいます。
 これはまさに、金光教のお取次とりつぎと同じではないでしょうか。お結界けっかいという場に座る先生は苦しい胸の内をすべて、ありのままに受け取り、神様に取り次いでくださいます。信心をしていれば、神様がいつでも預かり先になってくださるのです。
 ただ、言葉で表現できるなら、それはもうすでに、自分の心の内で、ある程度消化ができている状態かもしれません。話すだけですっきりした、という経験はよくあることです。
 しかし難しいのは、思うように言葉が出てこず、何も喋れないまま、ただ涙だけがあふれてくる、という状態です。私にも経験がありますが、説明できるのは、せいぜい事情や経過説明だけで、むしろ、本当に伝えたいことは、言葉の奥に隠れていて、どうやってもそれを上手く捉えられない。本人にとっては、こちらのほうがずっと問題の根は深いのです。
 しかし、別にそれで何の不都合もありません。なぜなら、私と先生と神様の間に交わされているのは言葉ではなく、心という目に見えない、本来言葉にできない何か、だからです。
 東畑さんと対談したおかげで、今まで自分が教会へ足を運んでいたことの意味が、少し分かってきたような気がします。私には、安心してすべてを預けられる方がいる。とにかく一旦お預けして、教会をあとにし、時間をかけて自分に与えられた試練の意味を考える。その間、神様に苦しみを消化していただき、いつか、おかげとして受け取る。苦しみだったはずのものから、ありがたさが生まれている。つまりは、そういうことを繰り返しているのだなあ、と思わされました。
 東畑さんの言葉を借りれば、教会は未来の約束である、と言えるのかもしれません。天地の間のどこにでも、辛抱強く自分を待ってくれている確かな未来がある。決して時間切れにはならないのです。
 プロのカウンセラーは、沈黙に強くならなければいけないそうです。手っ取り早く答えらしきものを出して、相手の問題から先に降りてしまっては、何の解決にもなりません。やはり、心のやり取りには、言葉に頼るよりもずっと長い時間が必要なのです。
 ただカウンセリングとお取次には決定的な違いがあります。カウンセラーは最後、領収書を渡しますが、信者が受け取るのは、神様へのお祈りを込めたお米、ご神米しんまいです。ご神米が、神様から授かった未来の約束の証になります。
 子どもの頃、黙ってお結界に座る祖父の前で、信者さんがじっと頭を垂れていた様子を思い出します。当時は何のために参って来られたのかなあ、と思うだけでしたが、今考えれば、あの時、信者さんと取次者としての祖父と神様の間に満ちていた沈黙は、侵しがたく、神聖なものでした。現実を超越した時間の流れがありました。その重要な事実に、何十年も経ってようやく私は気づいたのです。
 今日もお聴きくださってどうもありがとうございました。また次回、よろしくお願いいたします。

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