小川洋子の「私のひきだし」その5 第1回「気づく、ということ」


●小川洋子の「私のひきだし」その5 
第1回「気づく、ということ」

金光教放送センター


 皆様、おはようございます。作家の小川洋子おがわようこです。今年もまた、こうしてお話させていただく機会を頂戴しました。よろしくお願いいたします。
 子どもの頃から金光教の信心に守られ、育てられてきた私が、小説を書く中で感じたことを、お喋りできればと思っています。
 さて、私はここ最近、ミュージカルに熱中し、いわゆるし活動に励んでいるのですが、中でもやはり、一番の感動作は、ビクトル・ユーゴーの小説を原作にした『レ・ミゼラブル』です。あらすじは説明するまでもありませんが、19世紀のフランス、パンを一つ盗んで19年牢獄につながれ、すさんだ心に蝕まれていたジャン・バルジャンが、司教様から蝋燭ろうそく立て、銀の燭台しょくだいを与えられたことにより、新しい人生を切り拓く決心をします。やがて孤児の少女コゼットを引き取り、父親として愛情深く育てるうち、彼は本来の人間性を取り戻してゆきます。
 ラスト、罪人である自分の過去が、結婚を控えたコゼットの人生の邪魔にならないよう、ジャン・バルジャンは娘のもとを去り、一人、死んでゆこうとします。
 このシーンで流れる歌に、忘れがたい一節があります。
「誰かを愛することは 神様のおそばにいることだ」
 これを聴くたび、私は神様、金光大神こんこうだいじん様のことを思って、毎回、涙ぐんでしまいます。もちろん『レ・ミゼラブル』の世界の根幹にあるのは、キリスト教の精神だとよく承知しています。しかし、この言葉の前では、キリスト教も金光教も関係ありません。神に区別などないのです。
 誰かに愛されることではなく、愛すること。他者のために自らの最も大切なものを捧げることによって、神様のおそばにいられる。何と意味深い言葉でしょうか。おそばにいる、という一言により、神と人とが上下ではなく、並列の関係になっているのが伝わってきます。まさに、神と人との関係を作ってゆくのが信心である、という金光教の本質が現れているようです。
「人間が神と仲よくする信心である。神を恐れるようにすると信心にならない。神に近寄るようにせよ」
「人を一人助ければ、一人の神である。十人助ければ、十人の神である」
「…不幸せな者を見て、真にかわいい、かわいそう、という心からわが身を忘れて人を助ける、そのかわいい、かわいそう、と思う心が神心かみごころである。その神心におかげがいただける。それが信心である」
 舞台を観ながら私は様々なみ教え ・ ・ ・ を思い浮かべました。
 「司教様が燭台をジャン・バルジャンに与えたのは、罪人である彼を『かわいい』と思う心があったからですね。そしてバルジャンはその思いをコゼットに注ぎ、信心の真の意味を体現して、神様のおそばに行ったのですね」
 気づくと、まるで、すぐ隣の席に、神様が座っているかのように、知らず知らず、無言で神様に話しかけているのでした。
 そこでやり取りされているのは、言葉そのものではありません。心が行き来しているのです。神様と心を通わせるなどというのは、恐れ多いでしょうか。つけ上がっていると思われるでしょうか。しかし、金光教なら大丈夫です。神様と仲よくしなさいと、ちゃんと金光大神様がおっしゃっているのですから。
 こんなふうに、舞台や映画を観たり、本を読んだりして感動を覚えた時、必ず、金光教のみ教え ・ ・ ・ と重なっているのに気づかされます。信仰を持っているおかげで、登場人物たちの内面により深く入っていけるのです。
 もし私に信仰がなかったら、自分の生きている世界に対する気づきは、もっと貧弱なものになっていたはずです。『レ・ミゼラブル』を観劇したとしても、神と人との関係にまで思いを致すことはできなかったでしょう。信仰を持っていたからこそ、神様のおそばにはちゃんと、人間のための居場所があり、そこに関係が生まれ、人が救われてこそ神が喜ばれるのだ、と実感できたのです。
 当然ながら、舞台にいる役者さんたちは、19世紀ではなく、現実を生きる生身の人間です。舞台装置や背景や小道具は全部偽物です。ジャン・バルジャンもコゼットも架空の存在です。しかしその作り物の世界の中で、何より大事な真理に気づくことができる。その体験をありがたく思える。
 カーテンコールの中、拍手をしながら私は同時に胸の中で両手を合わせ、神様にお礼を申し上げていました。
 本日はここまでです。また次回、お聴きいただけましたら幸いです。どうもありがとうございました。

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