五代金光様を偲んで 第2回


●金光様を偲んで
「五代金光様を偲んで」第2回

金光教放送センター


(ナレ)令和6年7月21日、30年にわたり金光教の教主を勤めた金光平輝こんこうへいき様が亡くなりました。
 人々から尊敬と親しみを込めて「金光様」と呼ばれた金光平輝様は、教祖から数えて五代目にあたります。先週に引き続き、五代金光様を偲んで、次男である金光清治こんこうきよじさんにお話を伺いました。

(金光)先日も、母が父のことを、「自分は控えるという感じじゃったなあ」と言われていました。例えば廊下ですれ違うと、自分は控える、つまりご自身は端に寄って他の人を通すというような細やかな心遣いを普段からいっぱいされていたと。言われてみれば私も、そういう父の姿が思い起こされます。

(ナレ)ある日、家族みんなで夕食のシチューを食べていた時のお話です。

(金光)当時幼稚園の孫が、「おじいちゃん、シチューにご飯入れて食べたらおいしいでえ」と言ったんですね。その時に、「おおそうか」と言って、すぐにご飯をシチューの中に入れて、「おいしいおいしい」と言って食べられたんです。それが一日の勤めを終えられた後のことでした。
 私は、五代金光様はどんなお方ですかと聞かれたら、最初に、「すぐいお方です」とお答えします。直線の直で「直い」という字ですね。このシチューの話のように、五代金光様は本当に純粋、純真、ピュアであられます。家にいても、本部広前でのお取次のご姿勢、氏子の思いを真っ直ぐに受けてくださるご姿勢が染みついておられるんだなあと感じました。
 きっと私だったら、ああ私も小さい頃シチューにご飯を入れてぐちゃぐちゃにして食べていたなあと思い出すぐらいで終わっていたと思います。

(ナレ)また、金光様と清治さんがお店でラーメンを食べた帰り道のことです。

(金光)私が「今のはちょっとしょっぱかったですね」と言いました。すると父は、「いや、あれはああいう味なんだ、あれはああいう味として頂けばいい」と言われました。私が言った「ちょっとしょっぱい」というのは、自分の口、自分の舌、自分を中心にしたものです。これに対して金光様がおっしゃった、あれはああいう味として頂けば良いというのは、天地の恵みを中心にされています。
 金光様は自分を中心にされず、天地の恵みをそのままありのままに受け入れられて、ありがたく頂かれた。ラーメンの頂き方にも、そういう信心姿勢を学ばせていただいたことがありました。
 金光様のこういう頂かれ方がどのようなところから育まれたのかというと、五代金光様の祖母から、「食べ物の好き嫌いをしない。好き嫌いをしたら天地の味の幅を狭める」と教えられたことがベースになっているように頂けます。
 実際に父は食べ物の好き嫌いというのがあられません。天地の恵みの幅、広さ、深さを文字通り「天地の恵み」として、天地の御心みこころそのままに頂かれていました。
 さらに、五代金光様は自分が御用している、わしがしとるというようなところは、みじんもあられません。また、人にどう見られているかということも、全く気にされません。自分をよく見せようというようなところもあられません。飾られないありのままで、常に自然体であられます。そういう常の御姿をおそばにいて、いつも拝していました。

 
(ナレ)ある日、金光教の信奉者でない方が金光様と面会され、金光様が365日奉仕されていることを知って、大変驚かれたことがありました。

(金光)驚かれたその方が五代金光様に、「では、旅行にも行かれないんですか?」と尋ねられた時に、「たまには行きます」と答えられました。このことを後で聞かれた金光様の奥様が、「旅行に行かれないのに、なんでそうおっしゃったんですか?」と聞かれると、「たまに岡山に行くじゃろう」と真顔で言われたそうです。
 その頃、お退けの後に電車で岡山へお好きなクラシック音楽のCDなど求めに行かれることがあったからですが、奥様が「それは旅行とは言わないでしょう」と言うと、「ああ、あれは旅行とは言わんか。ははは」と無邪気に笑われたそうです。
 このご夫妻の会話をたまたま聞いた私の妻は、「普通の人は、自分のしたことを実際以上に大きく見せたいと思うものなのに、金光様は誰もできないようなすごい御用をされていても、すごいことをされていないように言われる。それが本当にすごいなあ」と言いました。全くその通りであると私も思わせていただいています。

(ナレ)他にも、ご家族しか知らないご自宅での貴重なエピソードがあります。

(金光)五代金光様は月に2回の月例祭やご大祭の時も、前もって自宅のご神前で神様に奏上する祭詞を声に出して読まれて、その時は必ず奥様がそばについておられました。時に私もおそばにおらせていただくことがありました。
 その時に、「願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ」というくだりの時に、金光様が声を詰まらせられることが一度だけでなく何度かありました。前もって自宅のご神前で祭詞を読まれる時に、感極まられるということがありました。
 以前には、「ゆっくり読んどったら読めんようになってしまう」とおっしゃったこともあります。実際にご祭典で祭詞を読まれる時には、金光様はリズムも良く、いわば淡々と奏上されていましたので、ゆっくり読んどったら読めんようになってしまうというような、感極まられるようなお心持ちで祭詞を奏上されていたということは、多くの方にはお分かりにならなかったのではないかと思います。

(ナレ)本日はここまでです。次週も五代金光様のお話をお届けします。

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