●私の本棚から
「人生最後の試験」

大阪府
金光教平野教会
宮下寿美 先生
おはようございます。今日は、私が奉仕する金光教平野教会の三代教会長だった祖父、宮下直次先生が書き残した書物の中から、『教話集』という書籍を紹介します。祖父は、「金光教の信仰を、分かりやすく伝えたい」と何冊も本を作りました。今回ご紹介する本は、約40年前に書かれたものですが、令和の今でも「なるほど! そうか!」とはっとさせられ、心が落ち着く大切な気づきをくれます。今日は、そんな中から、「人生最後の試験」というお話をお聞きください。
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私の感じますところを、皆様がたに聞いていただきたいと思います。
皆、学校へ行っていた時、試験があったでしょう。その試験が小学校から中学、高校それから大学と、長い間、試験で苦しんできた。
ところで、学校を卒業したら、もう試験はないかというと、そんなことはない。学校を卒業しても試験はある。銀行にお勤めの人は、その銀行の本店で、商社へ勤めている人は、商社で試験がある。学校の教頭になるのでも、試験があって、とおらないとなれない。商売をなさっている方は、商売が繁盛していけばよいが、業績があがらなかったら落第です。
学校を卒業したら、もう、試験はない、そんなことはございません。なんぼでも次々に問題があって、試験があって、出てくる問題を次々解決させていただいて進ませてもらうことが大切で、いつも言うように、私たちが生きている限り、問題というものはなくなることはございません。
お天気でもそうですね。風のない、あたたかい、朝から晩までよい天気、そういう日は少ない。あとは、雨が降ったり風が吹いたり、曇ったり、寒かったり暑かったり、何もいうことのないよいお天気というのは、一年の内で数えるほどしかない。
そのことは、お互いの人生においてもそうなんです。生きている限り、どこまでいっても、何もいうことはない、ありがたいということにはなりません。
ところで、人生最後の試験が、人間の最後、人生にさよならいうとき、臨終のときが最後の試験でございます。
神様にお礼を申しあげ、お世話になった人にありがとうと言って死ぬような死に方、それが一番結構です。それは合格でございます。
そのようなことになるためには、やはり、何といっても、常日ごろです。常日ごろ考えていることが最後にでる。
よい生き方がよい死に方につながるといわれますが、それはそういうことでございます。
常日ごろから、非常に小言愚痴ばかり言っている男の人があった。その人が身体を悪くして入院した。皆が見舞いに行って、忙しいのに、暑い時に、まずは何はともあれ「ありがとう」と言えばよいと思うのですが、なかなかそれが言えない。やはり、それは常日ごろでございます。
(略)
自分は大丈夫と思っていても、常日ごろ、ありがたい生活、ありがたい思いがなければ、なかなか出てきません。
ある信者の人が、亡くなる時に、チャンと、神様から家族の者はもちろん、皆にお礼を言って亡くなった。長男のお嫁さんは、そのありがたい状に、本当に感動した。それで、私も信心させてもらうといって信心するようになった。
ある教会の老婦人が、亡くなってから遺言状がでてきた。たいがい、遺言状といったら、普通は財産のことや、宝石や着物のことです。
この人の遺言状は、一番はじめに、神様ありがとうございます、で始まっている。それから、教会の先生にありがとうございます。今日までお付き合いいただいた皆様ありがとうございます。続いて家族にお礼です。
遺言状を見た人々が感激した。生きておるとき、信心をしっかりしておった。信心の真心からでた遺言状である。お礼からあと、お祈りがでている。家族仲よう、おかげをいただいていくことを祈る。それが遺言であった。
教祖は「生きておる間に神になりおかずして、死んでからどうして神になれるか」と、まず、生きている今、今月今日、助かって行くことを我々に教えておって下さいます。
生きておる間に、ほんとうに、お互いが助かり、ありがたい生き方ができたら、死んでからのことは心配しなくてもよい、というように教えておって下さいます。
※ラジオ放送用に変更を加えている箇所があります。表記は原典に基づいています。
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「人生の最後にまたテストって!?」と思われた人が多かったのではと思いますが、私たちがイメージする試験とは違っていましたね。
生活をしていると、うれしいことや楽しいことばかりではありません。つらいこと、悲しいこと、しんどい、といった試練も乗り越えていかなければいけません。病苦災難にであっても、心を元気に整えて、ありがたい気持でいられれば、自分も幸せだし、まわりの人も安心できる。そういう生き方ができるようになったら、素晴らしいと思います。なかなか難しいことですが、「金光教の信仰は、安心して生きるための、心のよりどころになりますよ」と、そのように筆者である私の祖父が呼びかけているように思えてなりません。
