●信心ライブ
「気づく力」

金光教放送センター
(ナレ)おはようございます。今日は、熊本県・肥後浜町教会の橋本信一さんが、令和6年7月に、金光教本部でお話しされたものをお聞きいただきます。
(橋本)信心の醍醐味は何か。私はですね、「気づく力」、「あーそうだったのか」と気づいていく。そういうことが大事なんじゃないかな、このように思っております。
若い時には分からなかったけれども、年齢を重ねてだんだんと分かってくることがあると思います。あるいは、健康な時には全く気づかなかったけれども、病気になって初めて健康のありがたさが分かる。日常の生活の中で、少しずつそういうことに気がついていく、これが信心の上でとても大事なことではないかなと思うわけであります。
一つ、私の失敗談といいますか、例を申し上げたいと思います。私の在籍教会は、九州の熊本県山間部の過疎地にございます。のどかな所で教会の裏手には少しばかりの畑がございます。その家庭菜園の少し先には、榊の木が植わっておりまして。この榊の木は、教会のお祭りの時にですね、玉串として用いておりまして、私はそれを大切にですね、手入れをし、育てさせていただいておるわけであります。
ある時、畑で作業しておりましたら、どうもその榊の木がおかしいんですね。どうも、所々枝が折れているんです。誰かがいたずらをしておるような、そんな感じだったんですね。また別の日に行きますと、やはり枝が折れとるんです。これは絶対誰かがいたずらしとるな、神様の御用にお使いさせていただく大事な物、いたずらして「けしからん」と、こう思うんですね。その人を見かけたら注意してやろうと、そういう気持ちになっておりました。
そしてしばらくして、榊の木の前に一人の男性が立っておりました。私よりちょっと年配位の男性の方でした。「そこで何してるんですか」と聞いたんです。ぐっと振り返るんですね。振り返ったその手にはですね、榊の枝を4、5本お持ちなんですよね。聞いたんですよ私。「その榊はどうされたんですか」って。「向こうでもらってきた」と仰る。
しかしですね、目の前には、切り口の新しい手で折ったような、その枝が残っているんですね。そのお持ちになっている榊の枝もですね、手で折ったような。私は榊の枝を切る時は剪定ばさみを使います。私が切ったんじゃないんですね。明らかに手で折ったような。どう考えても状況証拠がそろっているといいますかね。明らかにその人が取ったんだと思いましてですね、言いました私は。
「ここは金光教の教会の敷地なんですよ。ここの榊はですね、教会のお祭りに使う榊なんですよ。勝手に持って行ってもらっちゃ困ります。人の物を黙って持っていくのは泥棒でしょ」、こう言うたんですよ、私。
そしたらその男性の方がみるみる怒ってきましてね、そして「俺は泥棒じゃなーい」と、言うて、榊の枝を握りしめたまま敷地から出て行かれました。
何とも言えない気持ちになりました。後味の悪いっていいますかね。つまりその人を怒らせてしまったんですね。あるいは見ず知らずの人に、「泥棒」って言っちゃったんですね。これは言い過ぎだなと思ってですね、あーと思いながら反省しながらですね、教会のお広前に行って、「すいませんでした、ちょっと言い過ぎました」と反省しておりましたら、ふっと気がつくことがある。あーそうか、私はその男性に「泥棒でしょ」と言ったんですけども、実はこの私自身が「泥棒」だったんじゃないかな。こう思うたんですね。つまり、神様の御用、お祭りに用いる榊だと言いながら、神様にお許しを頂かないままに、十分なご祈念もしないままに、パチパチ取っておったんじゃ、私は。それをふっと思わされたんですね。もしかしたら私もご無礼なことをしとったんじゃないかなと。本当にそう思わさしてもらいました。
それ以来、榊取りの御用をさせてもらう時にはですね、十分に神様にお願いをさせてもらって、そして榊取りの御用をさせてもらっておるわけであります。
ご無礼者の失敗ばかりしている私でありますけれども、気づくことがあるんですね。日常のささいなこと、普段の何気ないこと、当たり前に思っていること、そうした中にですね、神様のお働きはたくさんあるんじゃないかなと思います。その事柄に、一つでも二つでも気づいていく、分からせてもらう、ということがこのお道では大事なことではないかな、こう思うわけでございます。
(ナレ)いかがでしたか。
お話の中の男性が本当に榊を盗んだのかどうか、その真相は分かりません。しかし、橋本さんは、神様からご覧になれば、自分こそが「泥棒」だったと反省されました。
それは、天地の中にあるものに自分が作り出したものは何一つなく、すべてが神様のお恵みなんだということに気づかれたからなのでしょう。
神様に心を向けることで、理不尽と思えることも変わって見えてきます。そこから自分を見つめ直す目が開きます。この「気づく力」を頂けることが、信心の醍醐味と言えるのでしょう。