●先生のおはなし
「継続の中で学んだこと」

大阪府
金光教野田教会
丹羽晃 先生
(案内役)おはようございます。案内役の岩﨑弥生です。
今日のお話は、金光教野田教会 丹羽晃さんのお話で「継続の中で学んだこと」。それでは、お聴きください。
皆さんは今、何か続けていることはありますか?
今日は、「続ける」ということの大切さについて話したいと思います。
柔道、剣道、茶道、華道など、「道」と名がつく稽古事には、技術だけではなく礼儀や生き方を学ぶという意味があり、初めは分からなくても、道を歩み続ける中で分かるということがあります。
私自身、いろいろと続けてきた中から、中学時代の話を紹介したいと思います。
中学校に入学してすぐの朝礼で、校長先生が私たちに、「皆さん、今日から3年間、自分が食べた弁当箱を洗ってください。3年間自分の弁当箱を洗い続けることができた人は、私が責任をもって高校に入れてあげます」という話をされました。
「本当に? それで高校に入学できるなら」と思い、母に宣言して、その日から弁当箱を洗い始めました。今思うと、本当に単純でした。
順調に続いていましたが、1カ月後、友達と遊んでいて帰宅が遅くなりました。帰るなり母から、「早く晩ごはん食べなさい」と言われ、食べ終わってお風呂に入り、テレビを見て、寝る前に明日の準備をしておこうとカバンを開けると、洗っていない弁当箱が出てきました。
その時、「今日で洗うのはやめようか? 校長先生はああ言われたけれど、本当に高校に入れてもらえるかどうかも分からないし…」と、理由をつけて、やめようとしている自分がいました。
続ける途中には、諦めたい自分を正当化しようとする感情が、しばしば立ちはだかります。しかし、親に3年間弁当箱を洗うと宣言した手前、1カ月しか続かない恥ずかしさと、やめたい気持ちとで葛藤した結果、洗うことを選択しました。中学生なりのプライドが勝ち、何とか乗り越えられたのです。
それから1年経った頃には、無意識にできるようになりました。初めは意識してやっていたことが、朝起きれば歯を磨くように、家に帰れば弁当箱を洗っている自分がいました。
当初、勉強せずに高校へ行けるならと始めましたが、2年目になると、「校長先生が教えたかったのは、『継続の大切さ』ではないか。弁当箱洗いでも、風呂掃除でも何でも良くて、何かを続けることで、生徒に根気や忍耐力を養ってほしかったんだ。3年間続けたら高校に入れてあげるという言葉は、希望を持たせるためだ」と思うようになりました。続けていく中で、校長先生の真意に自ら気づいた瞬間でした。以来、中学・高校の6年間続けることができ、今も弁当箱は自分で洗っています。
私は今まで、継続を通してたくさんのことを学びました。本で読んだり、人から聞いたり、頭で覚えた内容は忘れることもありますが、自らが体験し、体で覚えたことは忘れません。
まずは形から入りながら、だんだんと事柄の本質に迫り、見えていなかった世界に気づいていきます。
私自身、毎日弁当箱を洗うことで、母がいつも私の体のことを思ってお弁当を作ってくれていることに気づき、深い愛情と祈りを感じることができました。
私は現在、高校の教師として宗教の授業を受け持っていますが、子どもたちには、「世と人のお役に立つ人になってほしい」という願いを持ちながら授業にあたり、子どもたちのここから先の人生に何か一つでもお役に立てますようにと祈りながら授業を続けています。
今は分からなくても、いつの日か分かってほしい内容を授業に取り入れるようになったのも、願いを持つようになったからです。
校長先生の思いや母の思いに気づけたことも、今、子どもたちのことを願い続けることができているのも、継続の中でこそ学ぶことができたおかげだと思っています。
今は、何もしていないという人も、運動でもお手伝いでも、ちょっとした趣味でも、生活の中で何か一つでも続けることができたなら、きっとたくさんのことを学ぶはずです。そして、それはきっと、一生の宝物になると思います。
何事も、やる前から諦める必要はありません。明日からと言わず、今日から、今からです。
(案内役)いかがでしたか。私は、ムラが多く、続けることが苦手ですので、このお話が、強く胸に刺さりました。
教祖様のみ教えに「ものは、細うても長う続かねば繁盛でないぞ。細い道でもしだいに踏み広げて通るのは繁盛じゃ」とあります。このみ教えは、まだ舗装されていない細い道でも毎日毎日往復していますと、だんだん道が広がっていきます。通るのをやめてしまうと、また草がいっぱい生えて、道を覆ってしまうでしょう。怠け心を出さずに歩き続けることが、いつのまにか広い道、繁盛になるということだと思うのです。丹羽さんのおっしゃるように、「まずは形から入りながら、だんだんと事柄の本質に迫り、見えていなかった世界に気づいていきます。今見えている世界には、必ず先があります」ということなのでしょうか。人生の宝物は意外とすぐそばにあるのかもしれません。
