●先生のおはなし
「信せる心」

金光教出石教会
大林誠 先生
先日、京都の古い町家を見学する機会がありました。通りに面した間口の狭い家に入り、奥まで続く細い土間を進んで行くと、古風な調度品も、あかり取りの中庭も、いかにも京都らしい味わいを醸し出していました。
しかしよく見ると、家の骨組みは至ってシンプルで、床下を覗き込むと、柱の足元は石の上にちょんと乗っているだけ。建物を頑丈にするはずの壁も両サイド以外にはほとんどありません。
こんな建物、見かけは風情があっていいけれど、ちょっと大きな地震が来たらひとたまりもないだろうな、と思いました。
ところが、案内してくれた人は、「弱そうに見えるでしょう。でも、これがいいんです。これでこそ地震に耐えられるんですよ」と言うのです。
京町家は、固さや強さで揺れをはねつけるのではない。揺れのエネルギーをしなやかに受け止めて、上手に逃がす。そんな発想で造られているのだという説明でした。
なるほど、力まないのがいいのか。そう納得した時、私はふと、一昨年亡くなった父のことを思い出していました。
父は晩年、急に物忘れがひどくなり、病院で検査を受けてもらいました。
「脳が小さくなっていますね。これは治せませんが、進むスピードを遅らせることは出来ますから、薬を飲みましょう」
お医者さんの説明に、父は興味深そうに耳を傾けていました。
私は父がショックを受けないかと心配していましたが、そんな様子は少しも見られません。それどころか、家に帰ってから、会う人会う人に、自慢話でもするかのように報告するのです。
「CT写真を初めて撮ってもらいましたが、何と私の頭にも脳みそが入っておったんですなあ。『初めまして、お世話になっております』とお礼を申しました」
「いったい何事ですか」と聞く人に、「いやあ、病院で認知症のテストを受けてきましてね、そしたら見事に合格しまして、認知症老人のお墨付きを頂きました。これも、神様から長いこと命を頂いてきた証です。ありがたいことです」。それを聞いた人は、「合格おめでとうございます」と言うわけにもいかず、返答に困っておられる様子でした。
父はそのように、何事も明るく受け止める人でしたが、その人生は、決して順風満帆だったわけではありません。戦災で家を失い、栄養失調と肺結核で進学を諦め、結婚してからも経済上の苦労は絶えず、体を酷使して腰を傷めるなど、苦労の絶えない一生であったとも言えます。
しかしそうした体験を、信心を支えにして一つ一つ乗り越えていくうち、人はみな、常に神様の温かい愛情に包まれて生きているのだと、心の底から確信するに至ったのでしょう。
そんな父にとっては、認知症という新しい体験をさせて頂けるのも神様のおかげ。また、病院でお世話になるのも、薬を頂くのも、皆さんが心配して下さるのも、全ておかげなのです。そしてこれらの一連のことが、次のどんなありがたいことにつながっていくだろうかと、希望をもって見つめているのです。
認知症が進むにつれて、パーキンソン病の症状も出て、歩くことが難しくなっていきました。それでも、父の口から愚痴や不足めいた言葉は、一言も聞かれませんでした。
ある時、私と妻とで両脇をかかえて、診察を受けに行ったことがありました。
「何か痛い所とか、つらいことなどはありませんか」と問い掛けるお医者さんに、父はしばらく考え込んだ後、「みんなが寄ってたかって、世話を焼いてくれまして、私ほど幸せな者が他にあろうかと思っとります」と言うのです。たった今、足腰の痛さに堪えながら、やっとの思いで椅子に座ったばかりなのに、もう頭の中は、一切のつらいことを覆い尽くしてしまうほど、ありがたいことばかりなのでした。
それからしだいに言葉が失われ、べったり床につくようになって、やがて静かに息を引き取りましたが、意識があるうちは、家族の顔を見るたびに、何かモゴモゴ口を動かしてはクスッと笑っていました。どうやら冗談を言ってみんなを笑わせているつもりのようでした。
何の憂いも迷いもなく、生き死にを神様に任せ切ったその姿は、神様の慈しみに包まれている安心を、身をもって教えてくれているようでした。
人間は、生きていく上で様々な問題にぶつかります。それらは、努力によって解決出来ることばかりではありません。重い病気、災害、事故など、自分の力の及ばない圧倒的な力でねじ伏せられるようなこともあるでしょう。そんな時にさえ、何が何でも自分の力で立ち向かわなければと身を硬くして構えていたら、心までポキッと折れてしまうかもしれません。
京都の古い町家が、地震の力をしなやかに受け止めてやり過ごすように、人間も、力を抜くべき時には抜くというワザを、日頃から身に付けておく必要があるのではないでしょうか。
父が生前、よく言っていました。
「信心の『信』は『まかす』とも読む。だから、信心というのは、神様にお任せする心ということ。しかしこの、お任せするというのが、なかなか難しゅうてなあ」
「難しゅうてなあ」という言葉から、父が常々、心の稽古をしていたことがうかがえます。
父が私に命掛けで見せてくれた信心、信せる心を、しっかりと受け継いでいかねばと思っています。