●ラジオドラマ「いろは団地B棟」
最終回「手のひらの中の幸せ」

金光教放送センター
登場人物
・大場 大吉 (無職)80代
・吉田 みな子 (大吉の娘・主婦・会社員)40代
・野尻 保 (介護職員)20代
・米川 和美 (看護師)40代
・細川 幸子 (介護職員)20代
・有田 さわ (無職)74歳
・キン (黒猫)年齢不詳
(ナレーション:キン)
ゴロ、ゴロニャーン。おいらはいろは団地に住みつく野良猫のキン。脳梗塞で体が不自由になってしまった大吉さんの家へ、入浴サービスの車が横付けされた。看護士の和美さんが、スタッフの人たちに向かってテキパキ指示を出している。大きな風呂桶を家の中へと運んでいるのは、野尻保さん。体を洗ったり、服を着せたりする役目は、細川幸子さんだ。大吉さんの娘さんのみな子さんがそばに付き添っている。
みな子:看護師さん。おじいちゃん、この頃あんまりご飯を食べないので少し心配しているのですけれども。
和 美:この暑さなんですから、若い人だって食が細くなりますよ。では、お熱を計ってみましょう。(体温計の計測音)6度3分です。入浴はOK。保さーん。
保 :ハイ。では大吉さん。お風呂に入りますよ。私の肩につかまって下さい。…(少し苦しそうに)ヨイショ、ヨイショ。さあ!(大吉を湯船の中へ)
大 吉:あああー。(と、気持ちが良さそうに)
(お風呂 湯の音)
幸 子:大吉さん、じゃあまずは髪の毛から洗いましょうか。目をつぶっていて下さいね。(シャンプー。湯の音)アラ、お爪が随分伸びてしまいましたね。後で私がお切りしましょう。…モシ、モシ。眠っちゃだめですよ。
みな子:(笑って)本当に気持ちが良さそう…。楽しみにしているのですよ、週に1度のこの時間を。良かったねえ、おじいちゃん。
(湯音)
幸 子:さあ、そろそろお風呂から上がりましょうか、保さん。よろしくお願い致します。
保 :ハ、ハイ。では、大吉さん。私の肩にしっかりつかまっていて下さい。(掛け声)せーの。…あっ、イ、イタッ。アイタタタ…。
和 美:(驚いて)保さん。ど、どうかしたのですか?
保 :…実は、前のお宅で少し腰を痛めてしまいまして…。
大 吉:…。(モニョモニョモニョ…)
みな子:おじいちゃん、なあに? 何が言いたいの?
和 美:保さん。利用者様がご心配なさるようなことは絶対に言ってはなりません。…ったく若い人っていうのは…。
保 :…ス、スミマセン…。
(カラス)
保 :ヨッコラショ。(と、ベンチに腰を下ろす)ハァー。今日も疲れたなあ…。イタッ。アイタタタ…。
キ ン:ゴロ、ゴロニャーン。
保 :キン。お前なのか。お前は、結構なご身分でうらやましいなぁ。働かないでも生きていけるんだもん。
幸 子:保さーん。保さぁーん。
保 :あっ。幸子さん。どうかしたんですか?
幸 子:今、保さんのお宅へ寄ったのよ。呼び鈴を鳴らしていたらお隣のおばあさんが出ていらして…。
保 :さわばあさんが?
幸 子:「この公園のベンチによく座っているから行ってみたら」って、そう親切に教えてくれたから来てみたらやっぱり。良かった! 会えて。
保 :…僕に、何かご用でも?
幸 子:手、手を出してみて。
保 :…えっ?
幸 子:あなたの手よ。握りしめたいから。
保 :(きょうがく)えっ。そ、そんな! そりゃ僕は、幸子さんのことが大好きです。手を握られたらどんなにいいかなって、いつも思っていました。で、でも…。
幸 子:(プッと吹き出す)何を言ってんの。ソレはソレとして。さ、早く手を出して。
保 :…ハ、ハイ…。
幸 子:あのね、さっき大吉さんのお着替えを済ませて、ベッドの上に寝かせて差し上げたら、あなたのほうをじっとご覧になって…。
保 :…僕のほうを?
幸 子:ええ。そして私の手を握りしめると、今度は、私の手の平にカタカナで大きく字を書かれたのよ。見ててね。今、保さんの手の平にそれを書いてあげるから。
保 :…(読んで)ア、リ、ガ、ト、ウ…。(感動して)あの大吉さんが…!
キ ン:ゴロニャーン。
保 :あれ、キン。どうしたの? 今日は、博士帽なんかかぶって。
キ ン:ゴロニャーン。…エッヘン。(と、もったいぶって)「人が人を助けるのが人間」――。
保 :えっ。キン。今、今、何て言ったんだい? 確か…人が、人を助けるのが…。
キ ン:人間!(と、キッパリ言って)自分の子どもが川に流されていくのを見ても、助けることが出来ない、そんな哀れな猫のおいらが言うのだから間違いはなし!
保 :(じっと考える)…自分の子どもが、川に流されてゆくのを見ても…。…そうか。助けることが出来るのは、我々人間だけなのか…。
さ わ:(ドア たたく)保くーん。カレーを持って来たわよー。孫のなっちゃんを探してくれたあの日から、ちょうど1年が経ったんだもの。恩を忘れちゃいけないと思ってね。保くーん、保くーん! まだ寝ているのー? もうお昼よー、保くーん。
保 :(ハッと目覚める)あっ、ああ…。夢。今のは夢だったのか…。キン、キーン。…キンちゃん、どこにいるんだ…。
(ナレーション:キン)
ゴロ、ゴロニャーン。どこにも行きゃしないよ。おいらはいつも、いつもみんなの心の中にいるのだ――。
