●ラジオドラマ「いろは団地B棟」
第6回「冷たいホットケーキ」

金光教放送センター
登場人物
・小林 満子 (医者)60代
・小林 治 (公務員・満子の夫)60代
・山形春代 (飲み屋のおかみ)70代
・キン (黒猫)年齢不詳
(ナレーション:キン)
おいらの名前はキン。いろは団地に住みつく野良猫だ。今日は、いろは団地のすぐそばで開業している内科医の満子先生夫婦が、息抜きにアジ釣りに出掛けたのだ。よっ、お仲が良ろしいことで!
(桟橋に寄せる岩波、海鳥の声)
治 :この桟橋は、小アジがたくさん釣れるんだ。人がいっぱいいるだろう。ほら、今はこうして雑談を交わしたりしているけれども、「その時」が来ると目は血走る、頭から湯気が立ち上る…。
満 子:「その時」って?
治 :潮止まり。満潮時と干潮時に潮が一時(いっとき)止まるんだ。その時にプランクトンがたくさん発生する、それを狙って小アジがドバーッと。
満 子:へーえ。
治 :だからその時までにはこうやって、釣りざおに仕掛けをたくさん作っておくんだ。…あ、気を付けて。1本の釣り糸には7つも8つも針がくっ付いているんだから。絡まりでもすれば最後、今夜のメニュー・アジのタタキは夢と消え去る。
満 子:(そっけなく)いいわよ、そしたら帰りがけにスーパーに立ち寄っておいしいお刺身を買いましょう。
満 子:(歓声)ワー、釣れた、釣れた! あっ、ピチピチ跳ねてる。あなた、取って! 早く取ってー!
治 :(魚、跳ねる)こっちだって大忙しなんだから人のことなど構っちゃいられないよ!
満 子:じゃあ一人でやってみるわ。あ、取れた、取れた。面白いわねえ。今夜はアジのお刺身にタタキに、酢漬けに空揚げ!
(海猫)
春 代:(荒い息)ハァー、ハァ…ハァ…。アイタタタ、しまった。
満 子:(独り言)どうしたのかしら、あのおばあさん…。
春 代:ああ、…ど、どうしよう…どうしたら…。
満 子:糸が絡まっちゃっているんだわ。隣はライバル! 今のうちにあたしがうーんとたくさん釣って…。あー、そうだ! 残ったらのら猫のキンちゃんにもあげよう!
春 代:もうだめだ!! 肝心な時にもうっ! ああ今日はついてない…。
治 :満子、どうかしたの?
満 子:…ちょっとね…。
治 :早くしないと魚の大群はあっという間にどこかに消えてしまうよ。…あ、満子、ど、どこへ行くんだ! 満子っ、満子ーっ!
(波音)
満 子:おばあさん、そんなに糸が絡まっちゃってさぞかしお困りでしょう。ほどくのを私も一緒にお手伝いしましょう。
春 代:(ぶっきらぼうに)ええ。
満 子:ええっ?
春 代:「手伝わんでもええ!」と、そう言っておるんだ。
満 子:…で、でも…。
春 代:早う戻らんとあんた! 今は、魚が食いつきまくる潮止まりなんだから。
満 子:いいんです。見てはいられませんもの。私も一緒にほどくのをお手伝いさせて下さい。
春 代:…いいのかい? 本当に、あんた…。
治 :(車のエンジンが掛かる)さあ、乗って! 早く乗って!
満 子:ハァイ。(車に乗って座る)発車オーライ!…(何かに気が付き)あ、あなた、ちょっと待って。誰か走ってくる。あれはさっきの…!
春 代:(荒い息)待ってぇ! ちょっと、ちょっと、待ってぇ!
満 子:(車のドア 開く)あ、おばあさん!
春 代:あたしは、は、「春代 」って名だ。
満 子:(息切れ)…春代さん…。
春 代:さっきはどうも…。あの、コ、コレ…。
満 子:な、何ですか?
春 代:ほんのお礼の気持ち。嫁が今朝焼いたんだ。食べて。それじゃあ…(駆け去る)。
満 子:あー、待って! 春代さん、待って下さーい。そんな、そんなお礼だなんて…。ああ、行ってしまった…何かしら…。(紙袋 開ける)
満 子:…ホットケーキが2枚…。
治 :ホットケーキかぁ、腹、減ったから早速頂こう。(食べながら)うん? 大分固くなっちゃってるね。このホットケーキ、今朝焼いてラップもかけずに置いといたんだな。
満 子:お礼を言わなければならないのはあたしの方…。
治 :どうして? 釣り糸をほどくお手伝いをしてあげたのは…。
満 子:(遮る)「人を助けたい」って、そう思わせてくれたのはあの春代さんなんだもの。だから…。
満 子:あたし、この前、自転車屋さんから、「満子先生、辞めないで!」って言ってもらえてうれしかった。その一言で助けられた。だからあたしもって。今日、その願いがかなった。春代さんにかなえてもらったのよ。良かった、本当に良かった…。
(ナレーション:キン)
良かったね、満子先生。ところで小アジはどのくらい釣れたのかなあ。残り物でもいいから早く食べさせてくれよ。待ってますよ、ニャー、腹が減ったぁ…。
