●ラジオドラマ「いろは団地B棟」
第5回「言えなかった一言」

金光教放送センター
登場人物
・三林 勝 (自転車店主)45歳
・小林 満子 (医者)60代
・村井 米作 (無職)80代
・キン (黒猫)年齢不詳
(ナレーション:キン)
ゴロニャーン。おいらは、いろは団地に住みつく野良猫のキン。…ここは、いろは団地B棟のすぐそばにある、内科・小林医院の待合室なんだ。半年前に奥さんを亡くした米作さんが、不機嫌な顔をして座っている。そこへ、町内会の役員をしている自転車屋の勝さんが、バス旅行のお知らせを持ってやって来た…。
勝 :こんにちはー。
米 作:(わざとせきをする)
勝 :(気付いて)あっ。米作さん。どこかお体の具合が?
米 作:…どこもかしこも悪い。
勝 :…半年以上が経ちますね。奥さんが亡くなられてから。お一人で何かお困りになるようなことでもあれば私が…。
米 作:(重々しく)困らないことは、何一つとしてない。
勝 :…え?
米 作:薬はいつも良子が飲ませてくれていた。飲み忘れなど一度もありゃしなかったんだ。だのに、私は家内に礼を言ったことがなかった。私が先に逝くとばっかり思っていたもんだから…。
勝 :いや、分かっていらっしゃいますよ。今の米作さんのお優しいお気持ちは。奥さんにはちゃあんと。
米 作:そんなことが、どうしてお前さんに分かるんだ。
勝 :うちの親父とおふくろ、2人とももう死んでしまいましたけれども、生きている間中、朝から晩までけんかばっかり。ところが最近よく見る夢の中じゃ、そりゃ仲よくしていましてねえ。あっ。夫婦っていうものは以心伝心、相手の心の中をよく見抜いているものなんだなぁって。
米 作:じゃあ、うちの良子も? 一度でも「ありがとう」と言っときゃ良かったという私の気持ちも?
勝 :もちろんですとも。…あ、そうだ! 米作さん、今度のバス旅行、ご一緒にいかがですか? 三浦半島。海を見ながら良子さんの思い出話。きっと喜んでくれると思いますよ!
米 作:(昔を思い出して)…新婚旅行も、そういえば海の近くだったなあ。バス旅行か…。行ってみるか…良子と一緒に…。
(ナレーション:キン)
良かったね、勝さん。淋しそうな米作さんを三浦半島のバス旅行へ誘うことが出来て。あ、お魚のお土産、待ってますよー。
勝 :(ノック)…入っても、よろしいでしょうか?(ドア 開く)
満 子:あら、自転車屋さん。
勝 :先生にちょっとご相談が。米作さんを、このバス旅行にお誘いしても構いませんでしょうか?
満 子:もちろんですとも。元気付けて差し上げて下さい。…私はびっくりしてしまったのよ。
勝 :…びっくり?
満 子:奥さんを亡くされてからいつも「死にたい」って口癖のようにおっしゃっていた米作さんが、今日は急に元気になっておられて。一体、どうしてなの?
勝 :…別に――。ただ…。
満 子:…ただ?
勝 :ハイ。ただ亡くなられた奥さんへの思いを、待合室で少しばかり聞いて差し上げただけのことなんです。
満 子:そうなんだ。
満 子:こんな言葉が世の中にあることをご存知?
勝 :ん?
満 子:「名患者、名医を育てる」って。
勝 :名患者、名医を育てる?
満 子:米作さんのような頑固で医者の言うことを素直に聞かない患者さん、そういう人たちを救って差し上げたい! 体ばかりではなく心の部分も。そう真剣に思い悩むことで、名医が育つという意味なのよ、これは。
勝 :へーえ。
満 子:今日は、自転車屋さんから教わったわ。忙しいことにかこつけて、患者さんたちの心に少しも寄り添おうとはしない、そんな自分がもうつくづく嫌になっちゃって…。
勝 :先生…。
満 子:このところ、私は一日の診療を終えるともうグッタリしちゃって…。「寄る年波」っていうのかしら…。いっそのこともう閉めちゃおうかなあ、なんて。
勝 :し、閉める?(慌てる)じょ、冗談じゃありません。いろは団地の人たちはどうなるんですか。みんなどんどん年を取ってきている。子どもたちは独立して、夫婦だけで住んでいるとか、米作さんのように男やもめになっちゃった人たちもいて。夜中でも電話を一本掛けりゃぁ飛んで来てくれる満子先生がもし、もしもいなくなっちゃったら…困る! 本当に困る! …先生! 辞めないでくれよー!
満 子:…あ、ありがとう! そうおっしゃって下さるお方が、一人でもいて下されば…私、これからも頑張れます! 勝さん、本当にどうもありがとう!
勝 :やぁー。照れくさいなあ。そんなにたくさん礼を言われると。俺、この間先生もよく知っている晴美さん、あの人に助けてもらったんだ。俺も誰かを助けられたらいいのになあって、そう思っていた矢先きだったんだ。うれしいよ、先生にそんなふうに言ってもらえて。ありがとう、ありがとう!
(ナレーション:キン)
いいなあ…。おいらも誰かに「ありがとう」って言ったり、言ってもらいたいものだニャァ…。
