何でも結構


●先生のおはなし
「何でも結構」

愛知県
金光教今池いまいけ教会
浅野弓あさのゆみ 先生


 「先生、この色紙に言葉を書いて下さい。つらいことがあった時、元気が湧いてくるような言葉がいいです」
 差し出された色紙に、私はびっくりしました。「えっ、私が字を書くの? 色紙に字を書くなんて、政治家や有名な人がすること。私は字もうまくないし、気の利いた言葉も持ち合わせていないし…」と、一瞬、ためらいましたが、彼女の真剣なまなざしに押され、断れませんでした。

 私に色紙を差し出した彼女は、3年前に名古屋に転勤してきて、私の奉仕する教会にお参りしてきました。
 それまでとても順調に仕事をしてきた彼女でしたが、新しい職場は彼女にとっては予想以上に厳しい職場で、思い掛けない人間関係のトラブルや責任ある仕事の重圧に耐えかねて、彼女は教会に参ってきても泣いてばかりの時もありました。神様に祈り、話をしていくうちにようやく落ち着いてくるということを繰り返しながら、だんだんに彼女らしい優しさ、明るさを取り戻すことが出来ました。
 悩み、苦しみながら耐えた3年間でしたが、人間としては一回りもふた回りも大きく成長出来た3年間であったと思います。そして、この春、名古屋での転勤生活を終えて、次の勤務地に行く前に、最後の参拝をしてきたのでした。
 彼女が、この3年間を大切に思ってくれているのが私には痛いほど分かりました。私は言葉を捜しました。何と書こうか…、思いを巡らす中に、私は父から聞いた話を思い出していました。

 父が若い時の話です。
 父は金光教の教会に入り、修行をしていました。そんなある日、父がとても尊敬している先生が教会に来られることになりました。
 その先生は、お話もすばらしく、たくさんの本も書かれていて、父はその先生に心から傾倒していたのでした。
 その憧れの先生に間近に会える、こんなチャンスはないと、どうしてもお会いしたいという思いになりました。
 でも、ただの修行生の身ですから、お会い出来るような立場ではありません。隠れるようにして先生の休んでおられる控室に近付きました。手には一枚の色紙。色紙といっても、あり合わせの古びた色紙だったそうです。
 父は恐る恐る控え室に近付き、声を掛けました。そして、先生の前に出て、「これに何か書いて下さい」と色紙を差し出しました。
 その高徳な先生は、もじゃもじゃ頭の、哲学者を思わせるような風貌で着物を着て、机の前に座っておられました。ギロリと、力のある目が父を捉えました。
 そして、「何と書くのか」と尋ねられました。
 父は、びっくりしました。その先生は、たくさんの色紙を書いておられ、その時、その人、その状況に合わせて、独特の味のある文字で色紙を書かれることで有名でもありました。
 ある教会には大きな畳半畳もあるほどの紙に平仮名で『はい』と二文字だけ書かれたものが残されています。先生の言葉には、いつも深い意味が込められています。『はい』という文字に込められた思いは、いつも気持ちのいい『はい』と返事の出来る心の調子が大切であるということでした。先生の手にかかると『はい』という、たった一つの言葉が、途端に輝き始めるのでした。
 ですから、父は、先生が何か自分に大切なところを書いて下さる、書いて下さった言葉を大切にしよう、そんな思いでしたから、「何と書くのか」などと、尋ねられることは予想していませんでした。
 「何と書くのか」という、思いがけない問いかけに、父は困惑し、考え、そしてようやく「な、何でも結構でございます」と、答えました。
 すると先生は、色紙を受け取り、墨でさらさらと書いて下さいました。受け取ってみると、その色紙にはなんと…『なんでも結構』と書かれてありました。それは先生の持ち味でもあるウィットに富んだ言葉でありましたが、父は返す言葉に詰まりました。
 先生は、父を優しく見つめながら、「何でも結構、これは大切な言葉だよ。結構という字は結んで構える、と書く。難儀というものは、もつれから起こるのである。まず一つひとつのことを丁寧にほどいて見直し、それを結び直して新たに構えると結構になっていく。何でも結構にしていくのが信心なんだよ」と話して下さったのでした。
 折に触れて、何度も父から聞かされていた話でした。その色紙は残念ながら、戦火に遭い、焼失してしまいましたが、父の心に深く刻み込まれ、そして私の心にも生き続けている言葉です。
 目の前の彼女は私が筆を執るのを、ゆったりと待っていました。
 「むつかしいなぁ」「苦手なのよね、こういうこと」。ぶつぶつ私がつぶやいているのも、楽しそうに見ています。
 思い切って私は、元気な字で『何でも結構』と書きました。
 そして、父の話を紹介し、「私もね、何か問題が起こると、『難儀はもつれである』って言葉を思い出すのよ。糸が絡まっている様子を思い浮かべてみて。ぷつんと切ったらおしまい。ゆっくりゆっくりほどけば、また結び直せるじゃない? あなたも新しい勤務地で、また人間関係に苦しむかもしれない。ハードな仕事に悲鳴を上げるかもしれない。でも、一つひとつ、もつれた糸をほどくように、丁寧に、丁寧に事に当たっていきましょう。きっと、するりとほどける時がくるからね。何でも結構…これが私のはなむけの言葉よ」と、色紙を渡しました。
 彼女はそっと色紙を抱き締め、何度もうなづいていました。

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