花の咲く音


●先生のおはなし
「花の咲く音」

金光教うるし教会
鳥越正克とりごえまさかつ先生


 「ほら、夕顔が咲いたよ。ポンと咲いたね」。母は庭の夕顔を見つめたまま、無邪気に言いました。私が小学4年生の時で、母が入院する前日の夕暮れでした。50年も前のことなのに、その時の情景は今でも鮮明に浮かびます。
 私の母は四国の高知から九州の父の元に嫁いで来ました。そして兄と私と弟の、男の子ばかり3人を授かりました。母は産まれつき体が弱く、嫁いでからも炊事の途中に気を失い、よく土間で倒れました。その度、父が背に負い、町医者に担ぎ込んでいました。朝早く、土間をせわしく歩き回る下駄の音や、ネギを刻むまな板の音が聞こえると、子ども心にも安心したものです。
 4年生の夏休みに入ってすぐのこと、私たちを前にした母が「お母さんは明日から入院して、手術をすることになったの。お母さんが家にいない間、お利口にするのよ。そしてお父さんの手伝いをしてね」と言いました。子宮筋腫でお腹を切り、今年の春に退院したばかりの身で、さらに、バセドー病でのどを切るということの重大さは、子どもの私にも理解できました。
 なのに母の面持ちは、まるで旅行にでも出掛けるように、にこやかでした。それがかえって、母の寂しさを思わされました。
 その日の夕暮れ時に母の「早くお庭に来てごらん。夕顔が咲くよ」の声に誘われた私は、縁側に腰掛けていた母の肩に、もたれ掛かるようにして座りました。
 その私を母は、左腕を回して「ほれほれ」と言いながら、胸に抱くように強く引き寄せました。いきなりのことに「お母さん恥ずかしいばい」と言ったものの、うれしくてなりませんでした。その時、母の胸元から、ほんのりと天花粉の香りがしました。
 夕食の後、父が神妙な顔つきで「お母さんは朝早く家を出るから、みんなで送り出すぞ。今夜は早く寝なさい」と言いました。その日はいつもより早めに寝ることになりました。寝室に張った蚊帳の中で、私たち三人はいつものように、川の字になって寝ました。すぐに寝付かれない私は兄と、「手術は痛いのだろうか?」「遠くの病院へはどうやって行くのだろうか?」「お金はあるのだろうか?」などと話しているうちに、いつしか寝入ったのでした。
 夜中に物音で目を覚ました私は、部屋の中に小さなお月様を見ました。目を凝らすと、それは、押し入れを照らす、懐中電灯の明かりでした。寝ている私たちを気遣いながら、母が押し入れの衣類を整理していたのでした。
 灯りが私の顔を照らし「起こしてしまったね。ここにおいで」との声がしました。母のそばにはっていくと、私をひざに乗せて抱き締め、衣類の場所を説明する間、ずーっと頭をさすり続けてくれました。
 あくる朝、目を覚ますと兄の姿はすでに無く、弟も起きていて、蚊帳の片隅でしくしく泣いていました。「しまった! 寝過ごした」と思いましたが、土間から包丁の音がしたのでホッとして「お母さん!」と声を掛けました。すると「みそ汁が出来たぞ、温かいうちに食べなさい。お兄ちゃんは隣町まで、お母さんに付いて行ったぞ」と、父の声が返ってきたのです。
 途端に悔んでも悔やみきれず、悲しくなって泣いて泣き疲れて、その場に寝込んでしまいました。当時、我が家には電話を引いていませんでした。向かいの家に掛かってくる、母からの電話を取り次いでもらうことになっていました。
 母からの電話があれば、あのこともこのことも話そうと、楽しみにしていましたが、果たせませんでした。それは、久しぶりの母の声に胸が詰まったことと、生まれて初めて受話器を握った緊張で、何も言えなかったのです。その上、その家のおばさんが「電話代がかさむから、もう切りましょうね」と言って、さっさと切ってしまったのでした。それっきりの電話でしたが、母の「お利口にしていますか」の言葉と、声の響きだけは今も耳に残っています。
 私がお利口にしていなかったせいなのか、秋風の吹くころに、ようやく母は帰ってきました。
 その後も、母の入院手術は13回に及びました。でも手術のつど、母は「毎日が奇跡ね。神様は何の取りえのない私でも、何とか生かしてやりたいと、ご苦労下さっているのね」と、輝きながら77歳の人生を終えました。
 死後、母の日記の中に「信心の花咲く手術台の上」と詠んだ俳句が残されていることを、兄から知らされました。
 俳句には、手術台という苦痛と不安の極限の場においてさえも、生きている今に感謝している母の、生き方が読み取れます。
 残された命が例え一瞬であっても、その一瞬をいとおしみ「今が最高!」と生きてきた母。小学生の私に、「夕顔がポンと咲いたね」と言ったが、あの時、確かに母は、命の歓喜の音を聞いたに違いありません。
 早いもので、今年は母の5年の節目を迎えました。私は夏には記念の夕顔を植えます。そして、初孫をひざに乗せて抱き締めながら、花の咲く音を聞きたいと思うのです。

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