●第5回
「かんべむさしの金光教案内8回」

金光教放送センター
おはようございます。『かんべむさしの金光教案内』、早くも最終回でございますが、神を崇める宗教には、神様と信奉者との間に立って教えたり導いたりする、神主さん、神父さん、牧師さんなどがおられます。そして金光教では、その役を務める人を「金光教教師」、普段の会話なんかでは「先生」と呼んでおりますので、今朝はそのお話をさせていただきましょう。
まず、金光教の先生は何をしておられるのかですが、簡単に言いますと、大勢の信者さんそれぞれが持ってる願いや、抱えてる問題を聞き取って、励ましたり、アドバイスしたり、間違ってるところがあれば、教えたりしておられます。例えば、試験に合格させてくださいとか、脱サラしたいのですとか、借金で首がまわりませんとか、持病がひどくなって困ってますとか、どんなことでも遠慮なく言ってきてくださいよ、という姿勢です。
その点、カウンセリングと似てまして、金光教はカウンセリング宗教だと言われたりもしてるそうです。しかし、精神医療としてのカウンセリングは、人と人との関係で成り立ってるわけですが、こちらはその土台に神様の存在があるという、そこが違っております。
つまり、信者さんがお届けしたことは全て、逐一、先生が神様にその成就や解決を祈ってくださいますし、励ましやアドバイスも、神様の教えを元にして、言っておられるんですね。人の願いや悩みを神に伝え、神の願いや思いを人に伝える、そしてそれを通して、より良い生き方を教えていく。それでこれを「取次」と申しまして、金光教の根本になってる働きですし、教会の先生方の、日々の仕事でもあるわけです。
そしたら、その先生にはどんな人がなっておられるのかですが。例えば、親が教会長だったのでその跡を継いだ人、信者さんだったのが志を立てて先生になった人、同じく信者さんだったのが、教会の先生から勧められてその道に進んだ人等々、いろいろです。ちなみに、金光教の先生の半分ほどは女性なんだそうです。岡山県浅口市金光町の本部に、金光教学院という教師養成機関がありまして、先生を志す人は、そこで1年間の修行をなさるんです。そしてその後、教会でも実地の修行を始めて、取次の稽古もされていくんですね。
しかし、作家の邪推かもしれませんが、私が思いますのに、先生になるといっても、やっぱり向き不向きがあるでしょうし、生まれつき穏やかだとか、もともと自分より人を第一に考えるタイプなんだとか、そんな人ばっかりではないんじゃないでしょうか。悩み、軋轢、抵抗感、拒否感、いろいろ心の葛藤があって、誰も彼もが、喜び勇んで先生になったわけではないだろうと思うんですけど、そのあたりはやはり、精神修養や修行によって、乗り越えていかれるんでしょうね。とにかく、私にはとてもできる仕事ではありませんし、なれる人間でもありません。
というのが、私は通わせてもらってる教会で、いまだに先生にくどくどと泣き言を訴えたりしてますが、仮にそれを自分が先生の立場で聞いたとしたら、聞かされたとしたら、私はかなりのせっかち、大阪弁で言う「いらち」ですから、「同じことばっかりなんべん言うたら気が済むんや。ええかげんにせえ!」と、声を荒げてしまうに違いありません。それが分かってるのなら、泣き言の繰り返しなんかやめたらいいんですけど、頭では分かってても、心が安心してくれないという、本当に、自分で自分の心を持て余してるんですね。
おまけに私は、過去に教会で、わあわあ泣きながら何かを訴えてる女性とか、なぜかカンカンに怒ってまくしたててる男性とかを見かけたことがありますが、そんな時にも先生は、落ち着いて、じっくり話を聞いてあげておられました。まあ本当に、私には到底できることではございません。
いずれにしましても、一年365日、元日の朝から大晦日の夜まで、教会長や、その教会に所属しておられる、ベテランの先生や若手の先生が、喜怒哀楽、様々な相談や訴えに接しておられます。金光教は教祖さん以来の伝統で、賽銭やお供えはしようとしまいと全く自由ですから、この取次は基本的に、何の見返りも求めない、無償の行為であるわけですね。
また、私が通わせていただいてるのは、大阪市内にある玉水教会という大きな教会ですが、そこの初代教会長が、「腕のある先生というのは、親切な先生のことだ」と言っておられます。実際、どこの教会の先生も親切で、これは本当に私が実感していることなんです。
はい。というわけで『かんべむさしの金光教案内』、5週にわたってお聞きいただきました。機会がございましたら、またいつかお話を。ありがとうございました。
