●先生のおはなし
「私の理解を超えたもの」

長崎県
金光教郷ノ浦教会
末永信野 先生
(ナレ)おはようございます。案内役の大林誠です。
今朝は、長崎県、金光教郷ノ浦教会の末永信野さんのお話です。タイトルは「私の理解を超えたもの」。ではお聞きください。
5年ほど前、長男が1歳を過ぎた頃、第二子の妊娠がわかりました。「そろそろ2人目が欲しいね」と話していた矢先だったので、本当にうれしくて、神様への感謝の気持ちでいっぱいになりました。
また、私自身も2歳差のきょうだいで育ち、周りの友人たちも2歳差で子育てをしていたこともあり、「予定通りに授かれた!」と喜んでいました。
ところが、初めての診察では胎嚢が確認できたものの、次の診察で先生に言われたのは、まさかの言葉でした。
「赤ちゃん、育ってない。心臓も動いてない。稽留流産だね」と。
流産? まさかそんな言葉を自分が聞くことになるなんて思ってもみませんでした。そんな兆候もなかったので、何を言われたのか、すぐには理解できませんでした。
後から思い出したのは、全ての妊娠の約15%が流産するというネットの記事。
「珍しいことじゃないんだ」と頭では理解できても、いざ自分の身に起こるとなると、受け入れることができず、感情がぐちゃぐちゃになりました。喜びでいっぱいだった気持ちは、瞬く間に深い悲しみに変わり、地獄に突き落とされたような気分でした。
私たち夫婦はこのやり場のない悲しみから救われたい一心で、岡山県にある金光教の本部にお参りしました。お広前と呼ばれる祈りの空間に一歩足を踏み入れ、神様がお祀りしてある場所が目に入った瞬間、私は激しく動揺しました。お腹にいる赤ちゃんの心臓が動いていないことを認めなければならない。それがつらくて、泣きながら神様に祈りました。
その後、お広前の前方にお座りになっている教主金光様のところに進み出て、夫が、流産のことをお伝えしました。
「このことがどういう思し召しか、まだ私たち夫婦も受け止め切れていませんが、次の妊娠出産も望んでいます。おかげを頂けるようにお願いします」
すると金光様は、まるですべてを分かっておられたかのように、相づちを打ちながら聞いてくださいました。そして私の体感としては、お広前に響き渡るかのような大きな声で神様に祈ってくださったのです。それを聞いて私は、不思議と「あぁ、大丈夫なんだな」と思わされました。この子も大丈夫、私も大丈夫、全部大丈夫なんだと、一瞬で救い上げられたような気がしました。
とはいえ、やはり人間心にいろいろと考えてしまっては気持ちがなかなか切り替えられず、自分を責めたり、思い悩んだりする日もありました。
しばらく経ったある日、枝豆を食べていた時のことです。3つ豆が入るさやに2つしか入っていなかったり、育っていない豆があったりすることにふと気がつきました。また、自宅の庭にまいたスイカの種の中にも、芽が出るものと出ないものがありました。
「あぁ、すべての命が育つわけではないんだなぁ」と、自然の中にある当たり前のことが、ふと心に沁みました。
私の身に起きたことも、わざわざ神様が、私に悲しい思いをさせようとされたことではなく、すべては天地の営みの中でのことなんだと、何気ない日常の中で教えていただいたように思います。
最初は、「2歳差できょうだいが欲しい」とずっとこだわっていました。でも、自分で勝手な予定を決めて焦っていることが、少し馬鹿らしく思えました。もっと大きな何かを感じたのです。
そして、それからちょうど1年後のことです。再び妊娠が叶い、無事に女の子を出産することができました。その頃には長男も3歳になり、着替えや食事、トイレも自分で行けるようになり、妹のお世話もしてくれるようになっていました。
そんな長男を見ていると、あの時こだわっていた「2歳差」よりも、今の「3歳差」が、私たち家族にはぴったりだったんじゃないか、そう思えるようになりました。上の子のお世話が減った分、私たちはとても助かっています。
神様は私が考える以上に、私たちにとって一番良いかたちを授けてくださっているんだろうなあ、そう実感させていただいた経験でもありました。
流産という経験を「してよかった」と思うことはありません。でも、その経験があったからこそ見えたこと、感じられたことがあります。人生には、なぜ自分が…と思うようなことが起こってきます。でも、そこにはまだ自分が気づけていない、神様からの願いがあるのかもしれません。
(ナレ)いかがでしたか。末永さんは流産した時の悲しさについて話しておられますね。妊娠がわかったその日から家族みんなで大喜びし、毎日神様にもお願いして、期待を膨らませてきただけに、その喪失感は簡単に癒やせるものではなかったと思います。
しかし幸いにして、末永さんにはお参りする場所がありました。そしてつらい思いを受け止めて、一緒に祈ってくださる先生もおられました。そのおかげで、末永さんは、ふと目にしたものから、命のはかなさや、命があることのありがたさを悟り、同時に、わが子の死を受け入れることもできたわけですね。
最後に、金光教祖が残した言葉を一つ、ご紹介しておきます。
「人間はみな、おかげの中に生まれ、おかげの中で生活をし、おかげの中に死んでいくのである」。
