●信心ライブ
「鼻紙(はながみ)を忘れんように」

金光教放送センター
(ナレ)金光教の集会で行われた発表や講話などを録音で紹介する「信心ライブ」。
今朝は、平成20年4月に行われた金光教本部の祭典でのお話を聞いて頂きます。話し手は、岡山県豊原教会の小林晋さんです。
(小林)親の気持ちというのは本当に面白いというか、不思議なところがあります。可愛くて可愛くて仕方がない。病気でもすれば、元気になってくれたらそれだけでいい。それで100点だ、と思う。でも、いったん学校へ行くようになって勉強しなかったら、100点取らなかったら、100点じゃあないんですね。
そんな思いになって、いつの間にやら子どもを責めたり不足に思うようになる。でも、本当に可愛いという親の心というものは、そんなもんじゃあないと思うんですよね。
あるお宅で、90過ぎの寝たきりのおばあちゃんが、どこが悪いというのではありませんが、老齢で休んでおられる。その親孝行の息子さんが、息子さんと言っても、もう、70近い歳になっておりますが、ある時、「おばあさん、これからちょっと出て行くが、おとなしくしてなさいよ」と声を掛けた。すると、「おう、おまえか。どこへ行くのか知らんが、お前は子どもの時からよく鼻を垂らしてたんだが、鼻紙を忘れんように持って行きおるか」と。
自分の下の世話をされているおばあちゃんが、「お前は子どもの時からよく忘れて大変だったが、忘れんように持って行けよ」と、こういうふうに言われたそうであります。
我が身が自由にならないような状態でありながら、我が子の心配をするという、それが、可愛いと思う親心、我が身を忘れて、我が子が可愛いと思う、そういう熱い気持ちが親の心なんですね。そこには計算もないんですね。この子を育てて一人前にして、先々養ってもらわなければならん、みたいなことはない訳なんです。本当の親心は、子どもが可愛いという心だけで、可愛くて可愛くてたまりません。そういう気持ちで一生懸命子どものことを願っているのであります。
そういう親のような心、可愛いと思う心、これが神心である。可愛いと思う心がそのまま神である。こう言われているのであります。
先程申しましたように、大勢の子どもを見て、よく見たら家の子が一番可愛い。うちの孫くらい可愛いのはおらんぞ、と言うのでありますけれども、まかり間違えたらどうなるかと言いますと、「あんたみたいに言うことを聞かない子は家におらんでもいい」というような要らぬことを言ってみたりする気持ちも起こってくる。そういうところが、人間が神様ではないところなんですね。
神様は、言うことを聞こうが聞かまいが、すなわち、「無信心者ほど神は可愛い」というふうに言われている。信心するからしないからではないんですねえ。天地の間に住む人間は皆神の氏子である。みんな可愛い神の子である。全く分け隔てがないんです。
ところが人間は、ともすると、自分の思い通りになっておりますと、いい子であるし、思い通りになりませんと、困った子、ということになります。でも、本当に困った子なんかはいません。大事な子なんですね。「あれには困ってます」と…。確かに、いろんな問題を起こしますと、親とすれば心配であったり、困ったりするのであります。でも、困ったり心配する前に、どんな子なのかと言うと、大切な大切な、可愛い可愛い、大事な子なんであります。
その大事な子なのだということを忘れないようにするためにどうするかと言うと、やはり、神様から授かった命、尊い命の持ち主である子どもである。そういう気持ちで子どものことを思わせて頂くことが大事なことではないかと思うんであります。そして、そういう親心を頂いて、お互いに育ってきているということではないのかな、と思うのであります。
(ナレ)いかがでしたか?
子どもに対する親の心って、切なくて、何とも不思議な心だと思いませんか。とにかく子どもが可愛い。どんな時でも、どんなことが起こっても、「どうか幸せになって欲しい」と、ただそれだけを思っているのが親の心なんですね。
そんな親の心が、実は神様の心と同じなんです。神様と言うと、私たち人間の側から神様に向かってお願いするものとばかり思っている方も多いと思うのです。でも、実は神様の方からも、私たち人間に対して、「どうか幸せになってくれ」といつも願って下さっているのです。
私もお話を聞きながら、神様から願われている自分というものを、改めて見直してみたいと思うようになりました。
