祖父の生きた広島で


●教師インタビュー
「祖父の生きた広島で」

金光教放送センター


(ナレ)金光教広島ひろしま教会で奉仕する佐藤清志さとうきよしさんは、平成16年、6月のある日、結婚したばかりの妻、明代あきよさんと、広島市現代美術館で、当時、開催されていたイサム・ノグチ展を観に行きました。そこで、ある一枚の写真に出合います。それは、イサム・ノグチがデザインした平和大橋の一つ、西平和大橋の写真でした。その西平和大橋の向こうに、小さな旗が見えました。
 清志さんが明代さんに、「見て! これ広島教会の旗じゃないかな」と言うと、明代さんも、「本当だね」とうなずきました。
 その写真が撮られたのはおそらく昭和27年頃。当時の広島教会は、清志さんの祖父、盛雄もりおさんが奉仕していました。
 写っていたのは、祖父が、教会の境内で毎日揚げていた金光教の旗。写真を見て清志さんは、祖父の盛雄さんがこの時代に、この広島で確かに生きていたと、実感したそうです。
 今から80年前、盛雄さん家族は、広島で被爆しました。盛雄さんと、妻の教子のりこさん、当時一歳になる長女の命は助かりましたが、奉仕していた広島教会は爆心地から750メートルの場所にあり、焼けてしまいました。住む家を失った盛雄さん家族は、岡山県との県境にある、盛雄さんの実家の芸備げいび教会に身を寄せました。

(佐藤)被爆して芸備教会に帰るんですけれども、おばあさん(祖母)っていうのが佐藤照さとうてる先生なんですけれども、照先生が、すぐに復興のために広島に帰りなさい、というか、行きなさいって言われるんですけども。
 「ゆっくり体、休めなさい」とか言われてもいいものなのに、すぐ広島に行けって。「亡くなった人がたくさんいるでしょう」と。それで、「まずはその教会、お広前ひろまえのことを。ご復興を早くさせてもらいなさい」っていうことで言われるんですけども。
 だから、おばあさんの言葉とは思いながらも、祖父も、そこはおばあさんだけじゃない、神様がそういうふうに言っておられるんだというふうに受け止められて、広島に戻って来られるということになるんです。

 
(ナレ)盛雄さんの祖母、照さんは、「一人の信者さんでも残っておられるのならば、信者さんが神様に祈り、心のよりどころとするお広前、そのお広前のある教会は一時も早く復興しなければならない。まして、たくさんの人が亡くなり御霊みたま様になられた。その御霊様のお祭りを放っておくことはできないでしょう」と、盛雄さんに、すぐに広島に戻ることを促したのです。
 普段は優しい祖母がその時ばかりは厳しく、そこに神様の願いを感じて、盛雄さんは、原爆荒野となった広島の町に戻ってきました。そして、以前は広い建物だった広島教会、その焼けた跡地に、畳二枚分ほどの小さな教会を建てました。
 とは言え、盛雄さんたちも無傷だったわけではありません。「傷を負った体で、祖父たちが、たった二帖ほどの教会でどのように暮らし、奉仕していたのか、想像もつかない」と清志さんは言います。しかし、その僅か二帖の教会に、多くの人が訪れていたことを、当時の参拝者の名前を記した御祈念帳ごきねんちょうが教えてくれました。

(佐藤)御祈念帳がですね、昭和21年くらいからきちっとした物が残ってくるんです。それを見させてもらうと、9月とか、原爆から1年経っていますけど、御祈念帳の帳面にかなりのご信者さんの名前が記されてあって。そこに神様の「お引き寄せ」というか、お働きというのを、見させていただきますね。だから、そういう時だからこそ必要なお広前というか教会なんだなというのを、すごく教えられます。

(ナレ)広島に戻った盛雄さんは、長い棒を探してきて、教会の境内に立て、来る日も来る日も、金光教の旗を揚げ続けたそうです。
 その空高く揚げられた旗は、「難儀の中にある人が一人でも多く教会に参ってきて助かってほしい」という、祖父の祈りの表れだったと、そう清志さんは考えています。
 清志さんは、祖父が広島へ戻った時の思いを、ある体験から感じ取ります。
 清志さんは、月に一度、芸備教会にお参りしています。ある時お参りすると、その日は、佐藤照さんの祥月命日で、芸備教会では御霊祭りがありました。照さんが広島教会の復興をずっと祈り続けてくれたことへのお礼にと、清志さんはその祭典に参列しました。そしてその日は芸備教会に泊まり、翌朝、芸備教会のお広前で、「今から帰ります」と、神様に祈念した時のことです。

(佐藤)翌朝、広島に帰るっていう時に、親教会の御神前で、「今から広島に帰らせていただきます」って言った瞬間に、こう、「帰るんじゃない!」っていう。響くものがあって。「ああ」と思って。もちろん広島教会に向かわせていただくんですけど。「あ、帰るんじゃないんだな」って。「広島教会に私が御用にお参りさせていただく」という気持ちにならされたんですね。「広島教会に参らせていただきます。お引き寄せいただきます」っていう。わが家であるようですけれども、やはり教会としてお引き寄せいただくということを願わせていただくようになったですね。「帰るんじゃないんだな」という。
 そこが自分の中で、盛雄先生が戦後、原爆の後、広島にもう一度戻ってこられるというのと、繋がったっていうんですかね。

(ナレ)清志さんにとって広島教会は、「教会」でもあり、生まれ育った「家」でもあります。わが家へは帰るのだけど、教会へは、帰るのではなく、神様に導かれて、神様と一緒に出向くのだ。そう気づかされ、清志さんは、80年前の原爆投下から間もない惨状の広島、その多くの苦しみの中に神様と一緒に飛び込んだ祖父の思いを感じたのです。
 盛雄さんが亡くなって、50年が経ちました。
 清志さんは祖父の思いを胸に、今日も広島教会で、人の助かりを願い、平和を祈りながら、旗を揚げています。

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