一旦こまれ


●先生のおはなし
「一旦こまれ」

兵庫県
金光教出石いずし教会
大林誠おおばやしまこと 先生


 お早うございます。大林と申します。

 私には高校生の息子がいるんですけれども、ちょっとこの子が変わり者でして、着るものでも、何か変なのが好きなんですね。今年の夏、好んで着ておりましたのが、白いTシャツだったんですけどね、交通標識みたいなのが図柄になってるんです。交差点でよく見かけますよね、赤い逆三角形で「止まれ」と書いたの。あれが胸の所に大きく描かれてる。でもよく見るとそれが、「止まれ」じゃなくてですね、「こまれ」って書いてあるんですよ。なかなか面白いでしょ。
 まあ本人は、ただ軽いノリでこの意地悪な標識を楽しんでるんでしょうけれども、見ているこちら側は、気になって仕方がない。そのうちに、この「こまれ」という図柄が、何か深い意味を持ったメッセージみたいに思えてきたんです。
 実はこのところ、困ったなあ、と思うようなことがちょくちょく起こりまして、そのうちの一つにですね、母が70代後半になって、急に耳が遠くなってきた、ということがあります。話がなかなかうまくかみ合わないんですね。

 例えばこんなことがありました。
 妻の友人が、何かサークルの行事の相談があるとかで来られた時のことですが、漁港の近くに住んでいる人なので、その時手土産に、エビを2、30匹持って来られたんです。
 で、その方と妻とが、楽し気にペチャクチャ話している、その隣の部屋で、私がコーヒーの準備をしておりますと、母がそのエビを持ってやってきました。
 「誠、(私、マコトって言います)誠、エビをもらったでな、今晩、焼き豆腐といっしょに千枝子さんに炊いてもらおうと思っとったけどな、今見たら、頭が取ってあるわ。頭がなかったら、ええダシが出れへんな。おいしゅうないな。どないしょう」
 ヒヤッとしましたねー。いや、本人は何も悪気はないんですよ。どんなメニューにしようかというだけのことですからね。でも「ダシが出ない」とか「おいしくない」なんて言ってるのが聞こえたら、いい気がしないじゃないですか。
 まあ幸い、隣の部屋ではそんなのまったく気付かないほど話が弾んでいるらしくて、大丈夫だったんですけどね。
 私は、とにかく母に静かにしてもらわなければいけない、ということで頭がいっぱいになってしまいました。
 「シーッ、隣に聞こえるよ」。こう申しますと、「あのな、エビをもらったんやけどな、頭が取ってあるで、ダシが出れへんで、豆腐と炊いてもおいしないで、どないしょう言うとるやがな」。
 母のヒソヒソ声は普通の声より大きいんですよ。
 「ヒソヒソ声はやめて。悪口言ってるみたいに聞こえるよ」
 「何にも悪いこと言うとれへんがな。何がいけんの。もう、あんたは、子供の頃は素直なええ子やったのに」
 私もう50なんですけどね。まあとにかく、静かにしてもらおうと思えば思うほど、どんどんまずいことになっていくんです。
 「分かった分かった。頼むから、もうとにかく、その話は後にして」
 ちょうどこの時に、隣の話がたまたま途切れまして、シーンと静かになった。そこに母の大きな声。
 「なんで誠は私の話を聞いてくれんの。あんたほんとに、意地悪やわ」
 妻の証言によりますと、隣の部屋に届いたせりふは、結局それだけだったみたいです。

 「あんたほんとに、意地悪やわ」――。
 今から思えば、これが神様の判定だった。ほんと、私がいけなかったんです。最初から何も余計なことは考えずに、母の思いを大事に受け止めてですね、「ああ、そうだねえ」と言ったらよかった。
 「じゃあ何かおいしい料理を考えてもらうから、今晩楽しみにしといてね」とでも言って、エビを受け取ってしまえば、安心してもらえたんじゃないでしょうか。
 お客さんに配慮をする、というところまでは良かったのかもしれませんけど、それによって親を責める気持ちになっていた。そこが結局、神様のお心に沿わなかったんじゃないかなあと、後になって気付くんですね。
 でもまあ、そういう失敗の繰り返しの中で、人間は少しずつでも成長させてもらえるのかもしれません。
 
 先日、こんなこともありました。おやつを食べている時に、母が言うんです。
 「誠、このせんべい、固うて私かめれへんわ。あんた食べてえな。食べかけやけどな、かんだのと違うで。手で割って食べとるんやから、きれいやで」
 そう言って渡すんですね。
 「あ、そう。ありがとう。じゃあもらおうか」と受け取って口に入れたら、そのせんべい、何かヌルッとぬれた感じがするんですよ。
 「あれ、このせんべい、ぬれてる」。私が疑いの眼差しを向けますと、「手が濡れとっただけやがな。噛んだのと違うで。きたないことないで」。
 ところが、その母の手を見ますと、そこには入れ歯が握られていたんですね。手がぬれていた理由はそれだったわけです。
 本人は何の矛盾も感じていないようで、至ってまじめに答えています。私はもうちょっとで余計な反論をしてしまいそうになりましたが、その言葉を、思い切ってせんべいと一緒に飲み込みました。
 そして、「おいしいやろ」と言っている母に、もう一度「ありがとう」と言い、そう言えたことを胸の内で神様にもお礼を言いました。

 交差点で一旦止まって左右を見る。それと同じように、折々に、一旦困って自分自身を見つめ直してみるということも、人間にとって大事なことなんだろうな、と息子のTシャツを見ながら、しみじみ思うようなことです。
 それにしても、困ることだらけで、人生は味わい深いですねえ。

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