驚くな おどろくな


●信心ライブ
「驚くな おどろくな」

金光教放送センター


(ナレ)おはようございます。今日は、愛知県・金光教幅下はばした教会の石黒眞樹いしぐろまさきさんが、2022年12月22日に金光教本部でお話しされたものをお聞きいただきます。
 私がどうにもならない問題に直面した時、聞かせていただき助けられたお話です。

(石黒)「驚くなおどろくな君驚くな道の真は動かざりけり」
「時々に驚くことの出来いでくるは我らが心磨けとのこと」
 教祖直信じきしん佐藤範雄さとうのりお先生が129年前のたぶん今日か昨日か、この時期にお歌いになった歌でございます。ある先輩の教話で、この2種のお歌を聞いたのは、昭和56年のことでありました。その時私は23歳。
 大学を出たばかりの私は、大阪のある教会で、修行生の真似事のようなことでございますけれども、置いてもらうことになりました。金光教学院(教師養成機関)にはまだ行っておりませんので、何も分かりません。
 しかし、私の父がその(修業先の)親先生にどうしても、この私を育てていただきたいと強く願いまして、無理なところを頼み込んでお世話になったようなことでございました。ところが私が入所してほどなく、その親先生がご病気になられて入院してしまわれます。
 そして親先生は40歳の若さでお隠れになって(亡くなって)しまわれました。冒頭にお話しした先生と、その二種のお歌に関してのやりとりというのは、そうした中での出来事でありました。私にとっても激しい衝撃で、驚くな驚くなと言われましても、ただただ驚くほかはありませんでした。
 しかしその親先生は、入院される前のある日、お広前の隅に慣れない黒衣を着て座っている私に、こういうお話を教えてくださいました。
 若い頃には、見抜き見通しだとか、神様からお知らせが頂けるといった特別な力に憧れるものだが、僕は勘が強いほうで、子どもの頃には道の角から犬が飛び出してくるぞと分かったし、学院生の頃は今日は誰かの下駄の鼻緒はなおが切れるぞと感じて、参拝するのに鼻緒を持って行ったらその通りだったとか、そういう前もって先に感じるようなことは、いくらでもあるものだ。けれどもそれは、御用には関係ないんだ。
 例えば、こんな話がある。教職きょうしょくを持たない奥様が、ある教会のお広前で留守番をされていた。そこにご信者さんがもう駆け込んでこられて、大変な問題のお取次を願われた。教会長は不在だ。どうしたらよいか。どう声をかけたらいいのかわからない。その奥さんは必死でご祈念した。すると、そのご信者さんに、「助かった。おかげを頂いた」と連絡が入ったという話がある。僕は、そういう姿勢の教師になってほしい。
 こういうお話でございましたが、私はこのお話をどう頂けばよいのか、よく分かりませんでした。
一心不乱にご祈念することの大切さを言おうとしているのか、人の思うことの強さのことか、ずっと分からなかったのであります。しかし、受け止めるということで考えてみたら、合点が行ったのです。この奥様が、「何もよりによって私が留守番をしている時に、こんな難問のお届けがあるなんて」と思うのと、「何の力もなく人を助けるなんてことできない。こんな私が留守番の時に、神様はこの困難を抱えた氏子うじこをお差し向けになった。それは、この氏子の助かりのために、今日この時この私にその御用に立てよと、神様が思し召しになられてのことだ」と、腹を据えたのでは大きな違いがあります。たとえどのような驚くことがあっても、しっかりと受け止めて、我がこととして向き合う態度が必要だということでありましょう。自分の力で何とかしようとするのではなく、受けに受けていくことで、自分の思いや力を超えた、想定外の神様のお働きが現れるのでありましょう。
 親先生は、そういう志を持った者になってくれ、そうなれるような稽古をしてくれと仰ろうとしたのだと、今は思っております。私が御用を頂いております教会では、一人ひとりの心の受け物を広やかにするという願いを立てて、受け物、器を作る稽古をしております。
 先ほどのお歌に歌われた、心を磨くということは、この器を作っていくということに通じることだと思っております。

 
(ナレ)いかがでしたか。
 私も、思いがけない役目を負うことになり、思いどおりにならないことがありました。その時このお話に出合い、
「驚くなおどろくな君驚くな道の真は動かざりけり」「時々に驚くことの出来るは我らが心磨けとのこと」というお歌を何度も繰り返し繰り返し自分に言い聞かせました。そうしているうちに、たとえ驚いたり、理不尽なことがあっても、「まずは、受け止めてみよう。何か意味のあることなのかもしれない。この先を楽しみにしてみよう」。そんな気持ちにさせてもらえるのでした。

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