叔母の介護


●先生のおはなし
「叔母の介護」

三重県
金光教せき教会
松澤和美まつざわかずみ 先生


(案内役)おはようございます。案内役の大林おおばやしまことです。
 今日は、三重県にあります金光教せき教会、松澤まつざわ和美かずみさんによる「叔母の介護」というお話です。松澤さんは、認知症になった叔母様を家族として受け入れ、介護に取り組んでいます。ではお聞きください。

 私の生活の場は金光教の教会です。娘2人が嫁いでからは、教会長である夫と、夫のお母さん、一番下の娘と、4人で暮らしていました。3年前、そこへ、お母さんの妹、私たちの叔母が家族に加わりました。それには、こんな経緯いきさつがありました。
事の始まりは、叔母の大腸がん。腹腔鏡ふくくうきょう手術による治療となりました。手術は無事に成功し、術後の経過も順調でした。
 ところが、もうすぐ退院という時、突然「危篤」の連絡が入ったのです。夫もびっくりして病院へ飛んでいきました。その時の叔母は、意識はあったものの、目は斜め上を向いたままで、右手がわずかに動くだけ。
脳梗塞のうこうそくでした。それでも皆の祈りが通じたのでしょう。一カ月半後、叔母は自分の足で歩いて退院しました。
 その時、私たちも久しぶりに、京都にある叔母の家を訪ねて気づいたのですが、叔母は、入院する前から軽い認知症だったようです。というのは、あちらこちらにメモ書きが貼ってあるのです。そして、メモ通りに生活できない様子がうかがえました。ごみの始末も難しいようでした。
 これでは、とても一人にしておけないからと、90歳になる夫の母が泊まり込みで、お世話に行きました。3週間が過ぎた頃、お母さんが一度帰りたいと、交代を頼んで帰宅した深夜、事故が起きました。叔母が自分でお風呂にお湯を張り、溺れかけて救急搬送されたのです。幸いこの時もまた、20日ほどで無事退院できました。でも、これを機に認知症はぐんと進みました。もうお母さん一人では何ともなりません。夫は、「教会で預かろう」と言いました。私は「できるかな…」と思いましたが、家族で相談し、お母さんが元気なうちは、叔母と一緒に暮らそうと決めました。
 さて、叔母を迎えるに当たり、心によみがえった言葉があります。それは、私が子育てに追われていた頃、金光教の小冊子で見た、尊敬する女性の先生のお言葉、「機嫌ようさせていただきなさい」という一言です。子育てに関わってのお話でしたが、何か事あるたびに私を導いてくれました。この時、改めて、「そうだ、機嫌ようさせていただこう」と思ったのです。
 もう一つ、私を支えてくれた言葉があります。それは、ほとんどの人が、「大丈夫?」と心配してくれる中、二番目の姉だけは、「あなた、それは、ようようみてあげなさいよう」と言ったのです。この一言には驚きました。なぜなら、姉には過去に壮絶な介護経験があったからです。
 姉は結婚して程なく、縁あって、高齢の認知症のご夫人をお世話することになりました。今から50年近く前のことで、当時は介護制度もなく、ヘルパーさんもおられず、一切を家でお世話するのが当たり前でした。今のように紙おむつもありません。洗濯だけでも大変です。子育てに手がかかる上に高齢者の介護、それは容易なことではありません。聞き知る限り、想像を絶する苦労でした。その姉の言葉なのです。驚きと共に、心に深く刻まれました。
 姉はちょくちょく電話をくれます。叔母と暮らすようになって1年が経った頃、姉に、あの時どういう気持ちで言ったのか尋ねてみました。すると、姉は自分が言ったことを覚えていないのです。「えーっ、2回、3回繰り返し言ったのに?」。2度目のびっくりです。少しの沈黙がありました。姉は昔のことを思い出していたのでしょう。しばらくして、「頑張ってたら自分が助かっていくから」と、ポツリと答えました。その言葉に、自然と涙が溢れました。これからの介護にも、先の楽しみができたように思えました。
 現在、叔母は週に6日、デイサービスに通っています。私のサポートできることは一部ですが、「機嫌よう」そして「ようようみさせていただこう」との思いで、日々笑顔で接するようにしています。
叔母はこちらへ来てから、朝、夕方、夜と、教会のご神前に参拝します。教会長である夫に丁寧に挨拶し、ちょっぴりちんぷんかんぷんな話をしています。その後ろ姿を見ながら、「叔母の一瞬一瞬に不安がなく、皆が機嫌よく過ごせますように」と願う毎日です。

(案内役)いかがでしたか。叔母様と一緒に神様にお祈りし、その後のとんちんかんな会話を、後ろから温かく見守っているという最後のシーンが、とても印象的でした。ご主人もきっとやさしく微笑みながら、その会話にお付き合いされているんでしょうね。
 松澤さんは、「機嫌よく」という言葉も、「ようようみてあげなさい」という言葉も、神様のお言葉として、うやうやしい気持ちで受け止めていかれたのではないでしょうか。神様が介護を託すにあたって、「どうか頼むぞ」と願いをかけてくださっている。神様のような広やかな心で、お役に立たせていただきたい。そんな思いがあるからこそ、いろいろとご苦労もあるはずの介護生活を、穏やかな気持ちで送ることができられるのでしょう。「自分が助かっていく」というお姉様の言葉は、そういう意味なのだろうと思います。

タイトルとURLをコピーしました