●こころの散歩道
「自分も他人も知らない自分」

金光教放送センター
なぜか小さい頃に聞いた話をいつまでも忘れずに覚えていることがある。人間は忘れる生き物であるから、たくさんのことを忘れながら生きているのに、その話だけは、削除できないファイルのように心にしまわれて、いつでも呼び出し可能なのだ。
私が中学校1年生の時だから、もう40年も前になる。担任の先生は、男の体育の先生だった。先生は、怖くて厳しそうな見かけによらず、にこやかで温和な人だった。長距離走が苦手だった私にも、体育の授業でのタイムが、走るたびにわずかながらも良くなっていったことを一緒になって喜んでくれた。随分と遅いタイムだったのに。
その先生が、ある日のホームルームで、黒板に正方形を書き、それを田んぼの田のような形に4分割しながら教えてくれた。「人間には、自分も他人も知っている部分、自分は知っているけれど他人は知らない部分、自分は知らないけれど他人は知っている部分、自分も他人も知らない部分があるんだ」。
先生が何を言おうとして話されたのかは全く覚えていない。しかし、その内容だけは記憶に残った。自分も他人も知らない部分があることに神秘的なものを感じたのかもしれない。
私はその後すぐに転校した。会社に勤めるようになってから、その先生に一度だけ再会したことがある。私の職場近くの喫茶店で、その先生がいることに気付いた私は、「先生! 中学1年の時、担任してもらった者です」と自分の名を名乗った。先生は、「あー、元気かー!」とすぐに気付いてくれて、すっかり社会人になった私を見て、当時と同じ笑顔で喜んでくれた。そして、これからの私にエールをくれた。
その姿に接しながら、4分割の話を思い出した私は、先生がなぜ私たちにその話をしてくれたのか分かったような気がした。「これからいろいろつらいことや苦しいこともあるだろうけど、いろんなことに挑戦して知らない自分をどんどん発見して、前向きに生きてくれ」。そう言いたかったのだ。
それからの私が前向きに生きたのかと問われると、決してそんなことはない。元来、悲観的な人間である。後ろ向きな生き方は変わらなかった。しかしこんなことがあった。
付き合いが続いていた高校時代の友人からある日、食事に誘われた。前々から仕事のことで悩んでいるのは聞いていた。友人はその日、深刻な表情で、「今の仕事を辞めて、新しい仕事を探そうかと思う。でも新しい環境でまた一からやり直すのはしんどい」と低い声でつぶやいた。
このような悩みは、実はすでに本人の中で答えが出ていて、あとは背中を押してもらいたいだけのことが多い。私はじっくりと話を聞くうちに、この場合もそうだと判断した。私自身、全くなじみのない職場に異動になった経験を話しながら、自分の性格を棚に上げ、あの4分割の話を持ち出したのだ。「人間には…云々。だから、新しい自分を発見するチャンスだよ」と。そのあともいろいろ話したと思うのだが、お酒が記憶を消してしまった。
しばらくしてその友人から、会社を辞め、新しい会社で働くことに決まったと連絡があった。落ち着いてから会った時には、言葉の調子も顔色も見違えるようだった。「あんなに不安だったのに、新しい職場にすっかりなじんでしまって…」というようなことを上機嫌で話してくれた。その時、「自分も他人も知らない部分てあるんだなあ」と前に話した私の言葉が飛び出した。
聞いてみると、人見知りで愛想もない自分だと思い、人からもそう見られていると思い込んでいたけど、職場で積極的にあいさつしたり、話しかけたりしているうちに、意外と人付き合いが楽しいものだと思えるようになったのだという。
その彼は、現在伴侶にも恵まれ、2人の子どもの親として、毎年、幸せそうな家族写真の年賀状を今でも送ってくれる。
年齢を重ねてから調べて分かったのだが、4分割のお話は心理学のモデルとして使われているものであった。「自分も他人も知らない部分」は、未(いま)だに知らないという意味で「未知の窓」と呼ぶようである。新しいことに挑戦する中で気が付くことがあるそうだ。
今でも後ろ向きな性格は変わらない私だが、金光教の教師になった今は、新しい自分を発見できるようにと願えるようになった。
「自分も他人も知らない部分」とは神様だけが知っている部分だ、きっとそうだ。神様のほうがそこに気づいてくれとずっと私たちに願ってくださっているのだ。そう思えている新しい自分を喜んであげたい、と思う。