私の頭も痛むけれども


●先生のおはなし
「私の頭も痛むけれども」

徳島県
金光教佐古さこ教会
向井道江むかいみちえ 先生


(ナレ)おはようございます。案内役の岩﨑弥生いわさきやよいです。
 良かれと思ってやったことを、全否定される。悲しいですよね。
 今日は、徳島県金光教佐古さこ教会 向井道江むかいみちえさんのお話をお聞きいただきます。タイトルは「私の頭も痛むけれども」。

 もう10年以上も昔、私が大学生だった頃の話です。
 私は地元の大学に入り、弓道部に入部してからは、部活一色の楽しい大学生活を過ごしていました。
 昔から、人に嫌われることが怖かった私は、「みんなに嫌われないように、周りを楽しませなくちゃ」という思いを持っていて、「今日、こんな忘れ物をしてしもて、めっちゃ困ったんよ」とか、自分の失敗談を、よく笑い話にしていました。また、友人や先輩が話しかけてくれたら、「私は喜んであなたの話を聴いていますよ」と見えるように、できる限りの笑顔で受け答えすることを心がけていました。
 そのおかげか、大学生活では友人とも付かず離れず、交友関係もそこそこ良い状態が続いていたように思います。
 けれどもそんな時、部活の同期であった理香ちゃんから、胸にグサリと刺さることを、突然言われたのです。
 「私、あなたの笑い声が嫌い。笑顔がむかつく」と。
 この同期の理香ちゃんというのは、控えめだけどしっかり者で、「私と違って、スマートでかっこいいよなぁ」と、前から密かに憧れを持っていた人でした。
 そんな理香ちゃんが、部活の試合の応援中、先輩と笑いながら話をしていた私に、いきなり、笑顔がむかつく、と苛立った表情で言ってきたんです。
 今考えてみたら、相手に向かってそれだけのことが言えるというのは、逆に信頼があったんじゃないかなっていう気もするのですが、当時は、自分が良かれと思って頑張っていたことを、きっぱりと否定されたことで、
「なんでそんなこと言われなあかんの?」「笑い声が嫌って、じゃあ、どうすればええんよ」
と、腹が立つやら、悲しいやら。
 理香ちゃんにはその時、「あ…、ごめん…」とだけ謝って、試合が終わってからもしばらくは一人で悶々としていました。
 理香ちゃんから、これだけきつく言われたのはこの一回だけでしたが、それからも事あるごとに、何やら冷ややかな態度をとられているような気がしますし、私にだけ、どこか厳しいような気がします。
 私も私で、理香ちゃんがいる時は思いっきり笑ったりするのを少し控えて、おとなしく、苛立たせないようにと気を使い、理香ちゃんとは少し距離をとるようにしていました。
 そこから状況は何も進展しないまま、卒業式が近くなった頃。
 部活の同期みんなで集まる機会がありました。そこにはもちろん理香ちゃんの姿もあります。そして、みんなで記念写真を撮り合っていた時、理香ちゃんのほうから私に近づいてきて、「今までごめん」と、そっと手紙を渡してくれたのです。
 その手紙の中には、「いつも笑って楽しそうに過ごしているあなたがうらやましかった。自分もそんなふうになりたいけれど、そうできないことに腹が立っていた。その苛立ちをぶつけて、ひどい態度をとってしまっていたんだ」ということが、謝罪の言葉と一緒に書かれていました。
 「あのしっかり者の理香ちゃんが、そんなふうに思っていたなんて」と、とても驚いたけれど、単に嫌われていたというわけじゃなかったんだなあという安心感もあり、最後にこうして思いを伝えてくれたことは、私にとって、とてもうれしいことでした。
 その後も、人生の中では思いもよらない人からの悪意にぶつかることがあります。そのたびに腹が立ったり、「自分が悪かったのかな…」と落ち込みますが、ふと、もしかしたらこの人も、理香ちゃんと同じように、自分ではどうにもできない思いを抱えているのかもしれないな。だったら、その抱えているものが少しでも軽くなっていきますようにと、願うことも増えてきました。
 金光教の教えには、「人に頭をたたかれても、私の頭は痛みませんが、あなたの手は痛みませんか、という心になったらよい」というものがあります。
 さすがにまだまだその境地には至らず、私の頭は、まだまだ痛みを感じますが、それでも、あなたの手も痛かったよね、と相手のことを思う気持ち。これを、神様は理香ちゃんをとおして私に教えてくれたんだと思っています。

(ナレ)いかがでしたか。
 いつも明るい笑顔の人が、人に嫌われたくないと思っての行動だったとか、理香さんのようにうらやましい気持ちを素直に言えず強い態度に出てしまったとか、人間関係の難しさを感じます。そして、二人は、表面に出ている行動は真逆ながら、同じ根っこがあるようにも思いました。また、どちらの立場に立っても私は、切なくなりました。それ以上に神様は、叩かれた頭の痛さと手の痛さを感じておられたことでしょう。
 本音で語ることが難しくなっている現代の人間関係の中で、相手を思うということ、改めて考えさせられました。

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