くされひざ


●信心ライブ
「くされひざ」

金光教放送センター


(ナレ)おはようございます。今日は、大分県・金光教日田ひた教会の堀尾光俊ほりおみつとしさんが、平成30年4月に、金岡かなおか教会でお話しされたものをお聞きいただきます。

(音源)最近私がよく、これは自分自身に言い聞かせて、それからご信者さんにも申し上げることですが、「老いるおかげ」「老いる喜び」というのを言うのです。「老いる」というのは分かりますよね、エンジンオイルじゃありませんよ(笑)。「老いる・老ける」ね。ところがそのことを悔やむ、不足に言うご信者さんが多いですね。「もう最近ダメです。耳は遠くなって、目は薄くなって、腰は曲がって、ひざは痛いし、腰は痛いし」。私はね、そういう時にいつも言うんです、「お礼が足りんよ、老いるおかげのお礼が足りんよ」と。
 風邪をひきましてね、以前市内の行きつけの内科に行かせてもらった。待合室で待っておりましたらね、八十代のご婦人が2人、待合室のベンチに座っておしゃべりしていました。そこに玄関からまた1人の八十代の同じ年配位のご婦人が入って来られた。まだその友達の所まで着いていない、3、4メートル位手前からこちらの人が見つけて声をかけた。「誰々さーん、ここ、ここ」とか言ってね。その方が、おっちらおっちらと歩いて来られて。いよいよ手前の所でこっちの方がね、「久しぶりね。最近どう? 元気?」と声かけて。それを言われたそのご婦人が、「私はね、もうこのひざさえ良くなれば、あとはどこも何ともない。ひざが痛くてひざが痛くて。ひざが悪くてひざが悪くて、えーい、もうこの腐れひざ」と言うた。腐れひざって分かりますかね、うちのほうの方言でしょうけどね。ニュアンスは分かるでしょ。褒め言葉じゃないですよ。こん畜生という感じですよね。ろくでなしとか、役立たず、という意味合いを込めて「この腐れひざ」と言ってポンと叩いた。私、それを聞くとはなしに聞こえますからね。ご無礼なことだなと。もしこれでひざに性根があって、心があって、しゃべれたら何て言いますか。「婆さん、よくも言うてくれたな、腐れひざだと。八十数年間あんたのために、雨の日も風の日も雪の日も、歩いて来たんだぞ、俺は。旅行にも行ったし、買い物にも行った。小学校にも行った、孫と一緒に。そのことに一言の感謝、お礼もせずに、八十過ぎてこの腐れひざ、よう言うてくれたと。分かった、金輪際、一歩たりとも歩いてやらんぞ」と、もしこのひざが言ったらお互い歩けないんですよ。そうでしょ。言葉をしゃべらないから、私たちは当たり前に思って、ひざが悪いと言うけれども、ひざが悪いんじゃないんでしょう。長いこと使わせていただいたということですよ。「ひざが悪いひざが悪い、この腐れひざ」。これは怒りますよね。聞いてて私、本当にそのように思いました。
 四代
金光こんこう様がですね、ずっと坐骨神経痛も悪かったし、ひざも痛かったということですね、ご晩年はね。お話を聞かせていただいたことがあります。毎日お風呂に入った時に、足をなでさすりしながらね、湯船の中でしょうね、おそらく。「足さん、足さん、今日も一日ありがとうございました」。なでさすりしながらお礼を申すそうです。そして、「どうぞ、明日もよろしくお願いいたします。歩かせてください」と。毎日お風呂に入った時にそうされるそうです。そして、その後に仰ったのが、「おかげで今日まで、一度も差し支えなく歩かせていただいております」。杖はもちろん突かれてましたけどね、けれども「差し支えなく歩かせていただいております。ありがたいことであります」と、こういうお話を聞かせていただいたことがあります。
 ありがたいという事が無いんじゃないんですね。ありがたいと受け止める心が無いんです。違いますか。ありがたいっていう事はいっぱいあるんですよ。昨日も夜休めた。朝目が覚めた。手足が動く。食物がのどを通った。排尿排便いただいた。「ありがたいな」ということはいくらでもある。「私は腰が少し痛いけれども、孫が今日も元気に学校へ行かせてもらいました。ありがとうございます」。ありがたい事はたくさん。ありがたいと受け止める心が育ってない、ということなんですね。
私、本当にそれを今思います。白内障の手術もしましたからね右眼は。「白内障の手術をさせていただくような年まで命を頂いております。ありがとうございます」、この心が大事なんじゃないでしょうか。
良いも悪いも、好きも嫌いも、ありがたいもありがたくないも、うれしいも悲しいも、全部、私ども一人ひとりの心が決めるんです。同じ現象であっても、それをありがたいと思う人と、不足に思う人とあるんですね。それは、めいめいの心がそう思うんです。だから心が問題なのです。心が育たないと危ういのですね、人間ってね。やっぱり、心を育てさせていただかねばならないということを思いますね。

(ナレ)「ありがたい事が無いのではなく、ありがたいと受け止める心が無い」とは、本当にその通りだと思いました。ご婦人も「このひざさえ良くなれば、あとはどこも何ともない」と仰っていましたが、裏を返せば、ひざ以外は全て良いということですよね。
私も小学生の時、足を骨折して不自由な思いをしたことがあります。そして、その時に当たり前のように歩けるありがたさを感じたのを思い出しました。でも日が経つとその気持ちは薄れています。改めて毎日、自分の体に対して「今日もありがとうございます」と、感謝する心の稽古が必要だと思いました。

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