伯母のお供え物


●もう一度聞きたいあの話
「伯母のお供え物」

金光教出石いずし教会
大林誠おおばやしまこと 先生


 都会で一人暮らしをしていた伯母がアルツハイマー病になって、実家であるわが家に帰ってきたのは、今からちょうど10年前のことでした。
 私が幼い頃、伯母はわが家で一緒に暮らしていて、私のことをわが子のようにかわいがってくれていました。ですから私にとって伯母は、もう1人の母親のような親しい存在です。妻も伯母が大好きでしたので、同居することに全く異存はありませんでした。
 しかし月日が経つにつれて、伯母の認知症は、ゆっくりと、しかし着実に進んでいきました。1年ほど経った頃の伯母は、1日中、「まんじゅうが食べたい」と言い続け、ちょっと目を離すと、財布も持たずに一直線に近所のスーパーに向かいました。
 「おまんじゅうちょうだい!」
 店に入るなり、レジの店員さんに叫ぶのです。
 まんじゅうを買いにいくこと自体は、店の人に事情を説明しておけば済むことです。しかし問題は、伯母が道の真ん中をずんずん突き進んでいくことでした。正面から車が迫ってきても、なぜか全く目に入らない様子です。交通事故に遭わないように、夫婦のどちらかがいつもピッタリ付き添っていなければなりません。心身共に疲れがたまっていきました。
 そんなある日のことでした。私が仕事から家に帰った途端、妻が深刻な面持ちで、「今日は、ほんとにヒヤッとしたわ」と、日中の出来事を話してくれました。
 わが家の筋向かいに金光教の教会があり、私も妻も毎日お参りしています。妻はその日の午後も、伯母が昼寝をしている間を見計らって、家に鍵を掛け、急いでお参りに行ったのだそうです。
 ちょうど、年に1度のお祭りの前日に当たっていて、大勢の人が忙しそうに準備をしていました。神様に拝礼した後、妻は教会の先生に、事前の準備に加われないことをお詫びしたり、伯母の様子を話したりしていました。その時、すぐ後ろに人の気配を感じました。振り返ると、何とそこに、家にいるはずの伯母が立っていたのです。おそらく朝食の時、私と妻が、「明日は教会のお祭りだね」と話していたのが、伯母の記憶の片隅に残っていたのでしょう。
 教会に来た伯母は、トイレットペーパーを一巻き、大事そうに抱えていたそうです。そしてなぜか、その穴のところに、筒型に丸めた新聞広告の紙が差し込まれていました。
 「先生、これ、神様にお供えしてください」
 伯母はそう言って、うやうやしくその謎の物体を教会の先生に差し出しました。先生はニコニコしながら、「はいはい、お供えさせていただきましょう」と言って、受け取ってくださったということでした。
 「それにしても、スーパーのほうへ行っていたら、危ないところだったね」と、私たちはそんな話をしながら、伯母の無事を喜んだのでした。
 翌日の日曜日は、伯母がデイサービスで老人ホームに出掛ける日でした。伯母を送り出した後、私たち夫婦は早速教会のお祭りに参拝しました。
 教会のお祭りは、雅楽に似た厳かな音楽に合わせて、装束姿の先生方が静々しずしずと出てこられるところから始まります。しばらくすると、お供え物として、鏡餅やお神酒みきのほか、海の幸、山の幸を色とりどりに盛り付けた三宝さんぼうを、人から人へ手渡しながら、次々に祭壇に運んでいく行事がありました。
 その美しさに見とれていると、それらの中に一つだけ、とても地味なお供え物があるのに気付きました。白い円筒形のものに何やら細いものが刺さっています。紛れもなくそれは、昨日伯母が持って来たという、あのトイレットペーパーだったのです。
 まさか本当にお供えされるとは…。教会の先生は、認知症の伯母が差し出したトイレットペーパーを、神様へのお供えとして、真心込めて扱ってくださったのでした。
 お祭りの後、私たちが教会の先生のところへ行ってお礼を申し上げると、「あのトイレットペーパーや広告の紙は、伯母さんには何に見えていたんでしょうかね。でもね、伯母さんにとっては、大事な大事なものだったに違いない。これを神様にお供えしてもらいたいという、ただその一心で、ここまで抱えてこられたんです。神様はね、人間のそういう一途な思いを、何よりも喜んで受け止めてくださるんですよ。伯母さんは、昔から神様を本当に大切にしてこられた。今もそれが、伯母さんのいのちに刻み込まれているんですね。何と尊いことではないですか」
 教会の先生は、時折声を詰まらせながら、こう話してくださり、私たちも胸に熱いものがこみ上げてくるのでした。
 その時、私は気付かされたのです。お供え物の値打ちが、値段や見かけで決まるのではないのと同じように、人間の値打ちも、役に立つとか立たないとか、見栄えが良いとか悪いとか、そんなことで簡単に測れるものではないのだと。そして私たちを慈しんでくれた伯母を、どこまでも大切にしていこうと、心に誓ったのでした。
 あれから随分時が経ちました。伯母は今、全く言葉が出なくなり、歩くこともできなくなって、椅子に座って静かに毎日を過ごしています。そんな伯母に、まるで天地に溶け込んでいくような、清々すがすがしさと神々こうごうしさを感じるこの頃です。

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