●もう一度聞きたいあの話
「僕の方こそ」
金光教南八幡教会
松田正一先生
11月27日、北風の吹く寒い日でした。私は仕事で大阪に出掛けて留守にしていた我が家での出来事です。
早めに夕食を終えた我が家では、塾に行っている末の息子の分を残して後片付けをしていました。どこかで救急車のサイレンの音が聞こえていました。毎日のように聞く、さほど珍しくないその音に、我が家の誰もが無関心になっていました。まさかその救急車に我が子が虫の息で乗せられているなんて、誰が想像できたでしょう。
交通事故の知らせは、我が家の空気を一変させました。現場に駆け付けた家内は、救急車の去った後にグシャグシャになった我が子の自転車を見付け、無我夢中で救急車の後を追いました。連絡を受けた病院では、帰り支度をしていた専門の医師たちが子どもを待ち受けてくれていました。手術室の前で、家内は不安といらだちの時間を過ごしました。しばらくして、医師から知らされたことは、子どもは頭を強く打っており、左大腿骨骨折、肋骨7本骨折、さらに肺に穴が空いて危険な状態にあって、今夜が峠であるということでした。間もなくして、大阪にいた私にこの知らせが届きました。しかし、北九州から電話で知らされる内容は要領を得ず、頭は大丈夫だと言ったかと思うと、意識が無いと言ったり、様子がはっきりしないだけに事の重大さだけがずっしりと伝わってきました。「どうしてこんなことになったのか。子どもは何をしていたのか。もう駄目かもしれない。いや、そんなことはない」など、意味のない言葉が後を立たずに湧いてくるのをどうすることもできませんでした。
私は、子どもの容態が分からないまま、夜行列車に飛び乗ったのです。親として何もしてやることのできないもどかしさを感じながら、ひたすら神様に祈るしかありませんでした。私は、夜汽車の中で、必死に冷静になろうとしていました。
その頃、北九州の病院で、子どもは最も危険な状態にありました。午前0時、「家族の方を呼んでください」と医師より告げられた時、家内は全身の血の気が引いていくのを感じたと言います。
午前6時、悪夢のような一夜が明け、私は、駅からタクシーで病院に急ぎました。既にもう白い布が掛けられているのでは…そんな予感が私を襲いました。この現実から逃げ出したいような思いに駆られながら、車は病院に着きました。集中治療室の前でうな垂れている家内を見付けると同時に、中から数人の医師たちが出てきました。「お父さんですか。よかったですね。もう大丈夫だと思いますよ。意識も戻っていますから中に入って声を掛けてあげてください」という医師の言葉に私は礼を言うとともに、家にいる母のことを思いました。おそらく一晩中一睡もせずに祈り続けてくれているに違いないと思ったからです。近くの公衆電話で、低い疲れた母の声を聞いた途端に、私は緊張の糸が切れ、あふれる涙を抑えることができませんでした。
一命を取り留めた子どもは、それから毎日、頭痛と全身打撲の痛みに苦しみながら、片時も母親の手を離そうとしませんでした。
そんな中で、加害者の大学生が病室を訪れてきたのです。包帯に包まれた子どもの枕元で、「ごめんね」と謝った時、苦しい息の下で、「僕の方こそ」と小学5年生の子どもが答えたのです。思い掛けない言葉に私はビックリしました。その大学生も余程うれしかったのでしょう。彼の目から涙がこぼれていました。誰が教えたわけでもない。考えて言ったわけでもない。耐えられない程の痛みの中で、相手をいたわる優しい心に誰もが感動しました。この時、私は、我が子の中に神様を見たのです。その光景はいつまでも私の心に焼き付いて離れませんでした。
「人間は皆、おかげの中に生かされて生きている。人間は、おかげの中に生まれ、おかげの中で生活をし、おかげの中に死んでいくのである」という金光教祖の言葉が浮かんできました。相手を責めることも、恨むこともしない純粋な子どもの心が、私に大切なことを教えてくれたのです。それは、どのような状況の中でも、おかげの中で生かされている命を頂いているということです。親でもない、医者でもない、神様が我が子を生かしてくださり、育ててくださっていたのです。人は、「運が強い」とか、「たくましい生命力」とか言いますが、親も医者も手の届かない大きな働きによって生かされてきたのです。まさに神様から与えられた命の働きによって、子どもは日を追うごとに目覚ましい回復を見せてくれました。2カ月ぶりに我が家へ帰ってきた時のことや、松葉杖をついて初めて教室に入った時クラスメートが拍手で迎えてくれたことなど、日一日と快方に向かう姿に、改めて生かされている命の証しのように私には思えました。
あれから1年の歳月が経ちました。今では、何事もなかったかのように子どもは元気に跳びはねています。しかし、子どもの額に残された1センチ程の傷跡が、私にいつもあの時のことを思い出させるのです。
我が身の苦しみの中にも、相手を思う神様の心をもつ子どもはまさしく神の氏子。その神の氏子を、子育てという名のもとに親の思いどおりに育てようとしてはいないか。神様が子どもを生かしてくださり、神様が子どもを育ててくれている。その邪魔をしてはいないかと、その傷跡が私に訴えているように思えるのです。