●平和
「夢が持てる幸せ」
金光教放送センター
(ナレ)神戸市に住む松井清さん、87歳。今からおよそ70年前、松井さんは長崎県に住んでいました。両親と姉、弟、そして妹が4人の合わせて9人家族。温かく幸せに満ちた家庭でしたが、昭和20年8月9日、長崎市に原爆が投下されました。その時、松井さんは15歳、学徒動員で工場にいました。
(松井)あれは11時過ぎですかね。もう本当に目もくらむすさまじい閃光に包まれました。もう輝き渡るオレンジと言いますか、それに全身包まれるわけですわ。それで周りの物がワーッと崩れ落ち…、ということですね。
動ける人は一斉に外へ逃げ出したんですね。もうもうと塵芥で空が覆われまして、もう太陽が褐色に見えるんですね。本当にもうすさまじい情景でしたわ。何が起こったか分からない。
(ナレ)幸い松井さんはかすり傷で済みましたが、工場は壊滅状態。至る所で火災が起こり、夕方まで自宅に帰ることが出来ませんでした。家は、爆心地からたった900メートルの地点にありました。
(松井)家はもう無いわけです、潰れてしまって。「ああ、駄目だったんか」。その時はね、本当にもう血が凍る思いがしましたね。
庭にですね、防空壕を掘っていたんです。そのふたをパッと上げますと、すぐそこに母の白い顔がパッと浮かびました。母はすぐ手を合わせてですね、私の顔を見て、「金光様、ありがとうございます」。そして、その母の後ろに父と弟がいたんですね。弟は、ガラスの破片を全身に浴びましてね、まあ血まみれですわな。それで奥にいた。
あと妹4人。2番目の子と1番下の子は亡くなりました。壊れたタンスの引き出しを引っ張り出してね、そこへ納めて、庭に置いてあると父は言いました。そして、1番上の妹と3番目の妹ですけれども、その2人はいなかった。救護所へ連れていってもらったということです。でもね、無理だった。もうその日のうちに2人とも亡くなっておるんですね。母が悔やんでおりました。
翌日、その妹2人を父が焼いてやろうと。それでその畑の片隅に…。父は私に、「もう可哀想だから、見るな」と言いました。おそらく全身やけどで、むごい状態であったと思うんです。
ですから、とにかく私の記憶に残っている妹の顔というのは、やっぱり、あどけないね、女の子の顔ですわ。少女の、あるいは赤ちゃんの笑顔ですね。
父はつらかったと思いますね。とにかく子煩悩でしたからねえ。自分の子どもを自分で焼かなきゃいけないというね…。むごいことです。
(ナレ)8月15日、日本の降伏と共に、長崎の中心街は無事だということを知りました。それから数日後に、父親が日ごろお参りしていた金光教の教会を訪ねます。
(松井)おそらくその時、教会の先生に、そういうことなら家族を皆連れてきなさいと仰って頂いたと思うんですわ。そういうことでね、教会に落ち着かせて頂いたんですね。
もう死がそんなに身近に迫っているということは、父は思っていなかったと思いますね。もちろん私は本当にもう死ぬ間際まで亡くなるとは思わなかった。
結局、まず弟が亡くなるんですね。それから、母が亡くなりました。母は、本当に何も言いませんでしたね。パタッと事切れるというか。だから、ぎりぎりまで堪えていたのかもしれませんね。可哀想だったと思います、思えば。子どもが次々亡くなるんです。5人亡くなったわけですから。打ちひしがれておったと思います。
父なんかは最後に、教会長の長田先生を枕元にお呼びして、もう死ぬ間際に枕辺でお取次を頂いて亡くなっている。
(ナレ)松井さんは家族の遺体を空き地で焼きました。遺骨は小さな花瓶に入れました。
(松井)自分の子どもを自分の手で荼毘に付さなければならなかった親が、今度は自分が自分の子どもに荼毘にされるという、本当にこれはもうむごいことですよ、これはね。
親が子を焼き、その親が今度は子に焼かれると、そういうことは絶対にあってはならないと思います。二度とね。そういうことを起こしてはいけないと思いますね。
(ナレ)松井さんは生き残った姉と2人で神戸の親戚に引き取られました。原爆で家族を失った悲しみを背負い、原爆症の不安を抱えながら、今日まで生きてこられました。松井さんに平和をどう考えるか尋ねました。
(松井)平和とは何か。それは、家族仲良くね、むつみ合う、穏やかな生活が続けられる世ですね。少年たちが自由に将来の夢を語り合って、それに挑戦が出来る、そういう世であることです。それが御霊様たちの願っておられる平和だと思います。
長年の年月を経て、ああそういうことなんだなあという気がね、します。だから決して紋切り型に平和と言ったって、そうじゃないと思うんですよ。もっと本当の身近なこと、それが出来るということが、大事なんだと思いますねえ。
(ナレ)戦後70年以上が経ちました。しかし、それは遠い昔の話ではありません。当時を生き抜いてきた人にとっては、まるで昨日のことのように感じます。ほんの少し前まで一緒に仲むつまじく暮らしていた家族。一瞬で奪われた命。平成の世になっても、多くの尊い命の上に私たちが生かされているということを忘れないでいたいと思います。