●平和
「平和を生み出す心」
金光教竹下教会
田中一男 先生
おはようございます。今朝もこの放送をお聞き頂きありがとうございます。平和な朝、静かな朝を迎えさせて頂き有り難いことであります。
以前、ある紙面で「なぜ生きる」という言葉が目に止まりました。現代は当たり前のように言いたいことも、やりたいことも何でも自由に出来、何と有り難いことでしょうか。
私は昭和7年生れで83歳になりました。物心付いたころから戦争は続いていました。
毎日生きていくことに精いっぱいな時代でありましたので「なぜ生きる」ということを改めて考える余裕もありませんでした。
昭和16年12月8日の朝6時のラジオで、「大本営発表、帝国陸海軍部隊は米国及び、英国と戦闘状態に入れり」という放送が流れました。
当時、小学校4年生だった私は、「とうとう始まったか」と思いました。
私が住んでいます福岡市も昭和19年6月19日、大空襲に遭い、一夜にして焼け野が原になってしまいました。
迎え撃つ戦闘機もない状態で、なすすべがありません。米軍機が飛来し、農村部を襲い、低空飛行して、人影を見ると機銃掃射を繰り返し、電車を見付けると反復攻撃を繰り返し、多数の死傷者が出ていました。
高等小学校1年だった昭和20年8月15日、正午から重大放送があるとの通達があり、それは、昭和天皇の玉音放送でした。その中で覚えているのは、「ポツダム宣言を受諾する」と「堪え難きを堪え、忍び難きを忍ぶ」との2つの言葉だけで、後はよく分かりませんでしたが、無条件降伏したということでした。
それからが大変でした。いろいろ不穏なうわさが流れ、当時農村部に疎開していましたが、「博多湾に米軍が上陸し、間もなく来るので、女、子どもは山に逃げろ」と人々を惑わしました。
また、農村にいながら食べ物が無いのです。近所の農家の方々がいろいろ良くして下さるのですが、これも限度があり、両親は大変苦労しました。食糧の配給はあるのですが、米はすぐ無くなり、押麦、小豆、大豆、トウモロコシ、脱脂大豆、これは大豆油を絞った粕で飼料として用意されたものと思われますが、こんな物まで米の代わりに配給されました。
別に食べる物がないのでいろいろ工夫して頂いておりました。野草も食べられる物は全部食べました。調味料もみそ、しょうゆなどはすぐ無くなり、塩の配給も少なくなり、電車に乗って海岸まで塩水をくみに行ったこともありました。
小柄な母が1時間掛けて電車の駅まで歩き、更に電車で1時間、農家を回ってサツマイモを十貫目、今に換算すると、37キロほどを分けてもらい、リュックに入れて背負って1日がかりで調達していました。時には母の晴れ着もお芋に変わっていました。
またお金の価値の変動も大変なものでした。戦争中の月給100円は高給取り、と言われていましたが、米軍が各地に進駐して来たころは1ドル360円。物資が無い無いと言われていましたが、市内には闇市場が生まれ、おにぎり1個が10円くらいで売られていました。
私も中学に入る前に、近くの米軍基地に一般の労働者に混じって10日くらい、働いたことがありました。ハワイ出身の日系の兵士に会い、部屋に呼ばれて、軽い作業をし終わると、帰りにはチョコレートをもらって喜んで帰っていましたが、長くは続きませんでした。
昭和21年4月に新しく出来た私立の中学校に入学しました。家から1時間歩いて電車の駅まで行き、それから20分くらい乗って通学していました。電車の本数も少なく、満員で、入って来る電車にどう乗るか、大変でした。私は電車の屋根に上るための取っ手みたいなところに1人ゆったりとぶら下がって通学しました。学校へ行っても弁当を持って来られない生徒が多かったので、授業は午前中だけの時期もありました。
中学3年になった時、制度が変り、現在の6・3・3制になり、高校1年に進学しました。家の生活は苦しく、昔300円あれば家が建つと言われた時代に、父は、「3000円あれば大学まで行ける」と用意してくれていましたが、あっという間に消えてしまい、退学せねばなりませんでした。
1年過ぎて定時制高校の編入試験を受け、仕事が終わって学校へ行くのですが、腹ペコで当時10円で売っていたコッペパンも買うことが出来ませんでした。
今から思うとよく卒業まで頑張ったなと思います。卒業式では涙が止まりませんでした。
戦後70年。現在の日本は豊かになり過ぎ、物はあふれ、社会制度が確立され、義務を果たすことは忘れ、むやみに自己主張を叫び、不平不満ばかり聞こえてきます。あのころのことを思うと感謝の心はどこへ行ったのでしょう。反省しなければならないことばかりです。
数年前ケニア出身のアフリカ人女性として史上初のノーベル平和賞を受賞したワンガリ・マータイさんが、「もったいない」という日本語を生き返らせて下さいました。今ではコマーシャルにまで使われるようになりましたが、ありがたいことです。
前の金光教教主金光鑑太郎様は、
「世話になるすべてに礼をいふこころ平和生み出すこころといはん」
と詠んでおられます。
私も年寄りなりに、皆様の心の平和を祈り続けさせて頂きたいと願っております。ありがとうございました。