MENU

MENU

読みもの

公式Facebook

金光教の信仰

このページでは、金光教の信仰(信心)や、生き方などをご紹介します。

目次

天地書附(てんちかきつけ)

天地書附

金光教本部をはじめ各教会や、信奉者の家庭などに、天地書附(てんちかきつけ)が掲げられています。

この書附は、天地金乃神(てんちかねのかみ)(めい)により、教祖様が参拝者に授けたもので、
これは心の守りであり、信心を日々忘れないための書き付けとして、よく見えるところに掲げるように
と教えられました。

その内容には
生神金光大神(いきがみこんこうだいじん)取次(とりつぎ)を通して天地金乃神(てんちかねのかみ)に一心に願いなさい
 おかげは和賀心(わがこころ)(やわらぎ喜ぶ心)にあります
 今月今日で頼みなさい
と、私たちが信心して助かるための在り方、金光教の信心の本質が端的に示されています。

取次(とりつぎ)

神様と人をつなぐ取次(とりつぎ)は金光教において、信仰活動の中心でもあります。

取次者は、参拝者それぞれの悩みや苦しみ、願いを聴き、その内容を神様に取り次いでくださいます。
そして、問題や状況に応じて、教祖様の教えを基に、神様の願いに沿うあり方や、助かる道筋を教えてくださいます。

金光教ではこの取次(とりつぎ)を頂きながら信心の稽古を進め、神様のおかげを受ける生き方になっていきます。

教えに基づく生き方、考え方

金光教にはさまざまな教えがあります。以下に、教えを基にした生き方、考え方の一部をご紹介します。

日に日に生きる、今月今日

教祖様は
「日に日に生きるが信心」
と、場所や時間にとらわれず、いつでもどこでも神様に心を向けて、賜った日々をありがたく過ごす生き方を教え諭されました。

例えばこのような教えがあります。
「信心は日々の改まりが第一じゃ。毎日、元日の心で暮らし、日が暮れたら大晦日と思い、夜が明けたら元日と思うて、日々うれしゅう暮らせば、家内に不和はない 」

万人平等

江戸時代末期から明治期、男尊女卑が当たり前の時代にあって、教祖様は
「女は神に近い」
と女性尊重の教えを説かれました。

また、支配階級の武士や藩主が参拝した時、農民たちと全く違わない態度で応対され、その平等な姿勢に驚いた村人が、
「殿様なら、もう少しご接待した方がよいのではないでしょうか」
と言うと、
「神様には、殿様であろうが職人であろうが上下はない」
と仰いました。

また、生活困窮者やさまざまな病者、被差別の立場を強いられていた人々に対しても、
「神様から見れば、人は皆神様の氏子」
と、万人の平等を説かれました。

親切・神心

教祖様は、自分さえ良ければ良いと考えずに人に親切を尽くすことを教えられました。

次のような出来事が残されています。
「寒い日であったが、お参りの途中で気の毒なおじいさんに出会い、かわいそうに思って、着ていた物を脱いであげた。それからお参りすると、教祖様が、『今日は結構なおかげを受けたなあ。不幸せな者を見て、真(しん)にかわいいという心からわが身を忘れて人を助ける、そのかわいいと思う心が神心である。その神心におかげがいただける。それが信心である』と仰せられた。」

また、
農業する人は、自分の田の水の様子を見に行ったら、人の田の水も見てあげれば、人もまた自分の田の水を見てくれる。互いに親切にし合えば、人も喜び、神もお喜びになる。
とも仰せられ、人に親切にすることで、その人が助かり、自らも助かることを教えられ、神様を拝むだけが信心ではないことを説かれました。

修行

ある方が教祖様へ、どのような修行を行うことがよいか、尋ねると、
「世間には水の行や火の行などがあるが、そのような行はしなくてもよい。毎日の家業を信心の行と心得て勤め、おかげを受けるがよい。世のため人のため、わが身の上を思って、家業をありがたく勤めることができれば、それがおかげである。それが神様のみ心にかなうのである」
と、日々の生活を大切にすることの大事さを教え諭されました。

 また、山にこもって修行を考えていた方には、
何もわざわざそんな不自由な山に行かなくても、心の中に山をこしらえて、その中で修行をしたら、それでよい。自分が山に入った心になっていれば、どんなに不自由なことがあっても、けっして不足を言うことはないであろう」
と、説かれました。

修行というと、日常生活とは異なる特別な場で、特別な方法を用いて、特別な体験を積むことだ、と一般に考えられます。しかし、金光教における修行は、日常的な生活の中での、心の修行を大切にしています。

例えば、朝目が覚めたら、今日いのちを頂いたことに感謝し、食事を頂く際には、天地の恵み、神様のお働きによる食物、さまざまないのちによって、自分の体を育ませて頂いていることに感謝すること等、他にも、仕事の上にも、入浴の上にも、家族や知人との関係の上にも、いつでもどこでも、心の行として向かうことの大切さを教えらえています。

このことは、「そうしなければならない」というものではなく、自然と、ありがたくできるようになるよう、神様に心を向けることができるよう、信心の稽古として、それぞれに願いを立てて取り組んでいきたいことです。

多様性

ある方が教祖様へ
「子どもの数が多く、それぞれ性格が違うので困っている」
とお願いしました。すると、教祖様は、
「五本の指が、もし、みな同じ長さでそろっていては、物をつかむことができない。長いのや短いのがあるので、物がつかめる。それぞれ性格が違うので、お役に立てるのである」
と教えられました。

人はそれぞれ、性格、体格の違い、得手不得手、趣味趣向等、さまざまに違いがあります。その違いもまた、神様から頂いた「いのち」の在り方です。

違いを認め、多様な在り方が尊重され、互いに助け合い、生かし合うことの大切さを説かれています。

形にとらわれず(まこと)の心で

お参りすること(参拝)について、このような教えがあります。
「いかにありがたそうに拝みことばを唱えても、心に真がなければ神にうそを言うのと同様である」
「神を拝むのに手や口を洗っても、心を洗わなければ何にもならない。心は火や水では洗えない。真一心で心を洗って信心をせよ」

ここでは、いかに身なりをきれいに整え、型通りに作法をきちんと守って参拝しても、神様へ向かう際には、心が「真」でなければならないと、心の在り方の大事さを教え説かれています。

また、お供えや寄付に関して
「氏子が用いてくれねば神も立たぬが、神は氏子に寄進させて氏子を痛めては喜ばぬと知れい」
という教えがあります。

お供えも真心でなされるもので、決して強制的になされたり、決まりのようになされたりするものではない、ということです。お供えは、神様へのお礼の心で、それぞれが真心を込めてなされるもので、その心を神様もお喜びになるのです。

難儀への向き合い

日々生きる中で、思いがけないことが起こってきます。時に、苦しいこと、悲しいこと、辛いことなど、自分にとって不都合なことにも出合います。そんな時、不安や心配にとらわれてしまったり、戸惑ったり、うろたえたり、不運を嘆くこともあるでしょう。

教祖様は、生きていく上にさまざまな難儀を受けられました。しかし、身にふりかかる難儀を嘆き悲しむのではなく、難儀を抱えながら神様に祈り、願いを深くされました。

そこから教祖様は、難儀の中で助かりを開いていく神様と人間との道、真の信心について、神様からの伝えを人々に教え説かれました。

難儀の中で、自分の力で何とかしようともがくことで、ますます状況が悪くなってしまう、苦しんでしまうこともあるでしょう。

自分ひとりで抱え込み、悩むのではなく、金光教本部や教会のお広前で取次者に状況や心の内をお話しし、取次(とりつぎ)を頂くことが大切です。取次者は、難儀を聴き受け、教えに基づく生き方、在り方を神様に祈り、共に助かりの道を求めてくださいます。

 このように、難儀にとらわれず、お取次を頂きながら、日々の生活やこれまでの人生の中に、ありがたさやよろこび、神様から自分自身にかけられた願いを感じ、いつでも神様と共に歩んでいく心を育ませていただきたいものです。

目次