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教祖・生神金光大神

教祖様は文化11(1814)年、備中国占見(今の岡山県金光町)で生まれました。農業を営んでいた教祖様は、家族の死やご自身の大病など、相次ぐ苦難の中で天地金乃神(てんちかねのかみ)と出会い、人間を救い助けたいと思われていた神様の願いを知り、いっそう信仰を深めていきました。

安政6(1859)年には、天地金乃神(てんちかねのかみ)からの農業をやめて難儀な氏子(人間)を取次ぎ助けてやってくれとの頼みを受け、人の願いを神様に祈り、神様の願いを人に伝える「取次(とりつぎ)」に専念することとなり、参拝する人たちに、人はみな神様の子であり、信心して助かる生き方を教えられました。

目次

生神金光大神(いきがみこんこうだいじん)

生神金光大神(いきがみこんこうだいじん)とは、教祖様が天地金乃神(てんちかねのかみ)から授けられたご神号(神としての名)です。

教祖様は生涯にわたり、自分は「凡夫」(平凡な、普通の人。無知)の身、「土を掘る百姓」であると言い続けられました。
そして、教祖様のことを生神様と呼ぶ人々に、「生神とはここ(自らの心)に神が生まれることである」と言われ、誰もがその働きを現わすことができ、時や場所を問わず、それぞれの人の心の中に、神様が生まれるように努めることの大事さを教えられました。

立教聖場の外観画像
教祖・生神金光大神(いきがみこんこうだいじん)取次(とりつぎ)に専念された自宅を再現した「立教聖場」

教祖様のみ教え

202. 水をかぶって行(ぎょう)をするというが、体にかぶっても何にもならない。心にかぶれ。寒三十日の水行(すいぎょう)をするといっても、それは体を苦しめて病気をこしらえるようなものである。家内や子供の病気のために水をかぶって、一週間日参(にっさん)をしても治らなければ、自分の体に傷(きず)がつくだけである。水をかぶったから真(まこと)である、水をかぶらないから真がないとはいえない。食わずの行をするのは、金光大神は大嫌(きら)いである。食べて飲んで体を大切にして信心をせよ。


天地は語る -金光教教典抄-
 金光教本部数庁/編集 金光教徒社/発行(平成元年)

教祖様の生涯

出生

江戸時代の終わりごろ、文化11(1814)年8月16日(新暦9月29日)、備中国(びっちゅうのくに)占見村(うらみむら)(現岡山県浅口市金光町)の農家、香取(かんどり)十平(じゅうへい)、しもの次男として生まれました。源七(げんしち)と名付けられ、大切に育てられました。

幼少から身体が弱かったので、実直で信仰心の篤い父は暇を見つけてはわが子を背負い、村の氏神(うじがみ)をはじめ、近くの神社やお寺に参拝をしていました。

養子入り

文政8(1825)年、12歳になった教祖様は、隣村の大谷村(おおたにむら)に住む川手(かわて)粂治郎(くめじろう)、いわの養子となりました。名前を源七(げんしち)から文治郎(ぶんじろう)と改め、周りからは文治(ぶんじ)と呼ばれるようになりました。

川手の家は貧しい農家でしたが、愛情を注がれ大切に育てられ、農民に「読み書き」は不要とされていた時代に、13歳になった教祖様は、養父のはからいによって、村の庄屋の小野(おの)光右衛門(みつえもん)から手習い(読み書きやそろばん、倫理や道徳など)を受けることになりました。

相次ぐ家族の死

教祖様が18歳の時に産まれた弟の鶴太郎が6歳で亡くなり、半月後には養父粂治郎(くめじろう)が66歳で亡くなりました。家督(かとく)を継いだ教祖様は養父の遺言により姓を赤沢に改め、一層に家業に努める中、幼なじみのとせと結婚しました。

その後15年の間に、長男、長女、次男が幼くして亡くなり、当時農家にとって家族同様に大切にしていた飼い牛が2年続けて亡くなりました。

42歳の大患

安政2(1855)年42歳の時、「のどけ」と呼ばれる病気にかかり、生死の境をさまよい、医師からは半ばさじを投げられ、親類たちは、神様への祈祷に望みをたくしました。

祈祷を行うと、義弟に神がかりがあり、37歳の時に行った建築移転について金神に無礼があったと指摘されました。人一倍丁寧に日柄方位を守って建築を行った教祖様でしたが、「どの方角へご無礼したか凡夫(ぼんぷ)で分かりません。方角を見て済んだと思いません」と声を絞り出しておわびしました。すると「その方の信心に免じて神が助けてやる」と告げられました。

この出来事は神様と初めて出会い、日柄方位にゆさぶられていた人生を大きく変えることになりました。

立教

その後、神様からのさまざまな修行に従いながら農業に勤しむ中、次第に教祖様の元に難儀や悩みを抱えた人たちが訪れるようになり、たびたび農作業の手を止めて祈念を行うようになりました。

安政6(1859)年10月21日、神様から「農業をやめて、難儀をしている人たちを取次ぎ助けてやってくれ」という頼みが告げられました。教祖様はこの頼みを受け、自宅を神様の広前として「取次」に専念するようになりました。

金光教ではこの頼みを「立教(りっきょう)神伝(しんでん)」とし、この日を金光教の立教としています。

神様の御用の中で

立教以来、教えは広まる一方で、農民の身分で神職のような行為をする教祖への反発もありました。中でも山伏による妨害には激しいものもありました。

そうした中で、文久2(1862)年、「金光(こんこう)大明神(だいみょうじん)」と神号を改めるよう神様から命じられました。この”金光(こんこう)”には金乃神(かねのかみ)の光を世に現すものという意味が込められていました。
その後も、元治元(1864)年には「金光(こんこう)大権現(だいごんげん)」、明治元年には「生神(いきがみ)金光(こんこう)大神(だいじん)」と神号を授けられました。

神前撤去

明治6(1873)年、明治政府の新たな宗教政策により、実質的に神主職を失い、神前の撤去が命じられました。広前を退き、奥の間でひたすらに神様に向かう日々を送り、1ヵ月が経とうとした日、「天地金乃神(てんちかねのかみ) 生神金光大神(いきがみこんこうだいじん) 一心に(ねがえ) おかげは和賀心(わがこころ)にあり」という書附を作るよう神様から命じられました。

神勤の再開が認められ、再び広前で取次に当たることとなった教祖様は、信心の要ともいえる「天地書附」を参拝者に下げ、取次(とりつぎ)の座も現在と同じような形態となりました。

金光大神(こんこうだいじん)の死

教祖が取次に奉仕するようになり24年が過ぎ、その間、人々の苦しみを聞いては神様に祈り、神様の願いを参拝者に伝える中で、たくさんの人々が助かっていきました。

明治16(1883)年9月21日(旧暦8月21日)早朝、神様から「人民のため、大願の氏子助けるため、身代わりに神がさする、金光大神ひれいのため」というお告げを受けます。それから19日後の明治16年10月10日(旧暦9月10日)、教祖様は妻とせと娘くらに見守られて、70歳で眠るように生涯を終えました。

生涯かけて世の難儀を救い続けた教祖は、生きている限り伴う寝食など肉体の制約を超え、「金光大神と願うところにいってやる」との思いのもと、「永世生き通しの取次(とりつぎ)の神」として、今日もお働きくださっています。

教祖様の生涯略年図

※明治5年までは旧暦標記、年齢は、数え年で表記しました。

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元号(西暦)月日(新暦)できごと
文化11(1814)8月16日(9・29)占見村の農家である香取家の次男として生まれ、源七と名づけられる。
文政8(1825)11月26日(1826.1.4)大谷村の川手家へ養子入りし、名を文治郎と改める。
文政9(1826)この年から約2年間、庄屋の小野光右衛門から手習いを受ける。
天保2(1831) この年、たびたび道路、堤補修の村仕事に出る。
8月17日(9・22)義弟・鶴太郎出生。
天保3(1832)この年、養父・粂治郎は川手多郎左衛門、文治郎は国太郎と改名。
天保7(1836) たびたび村仕事に出る(安政5年まで)。
7月13日(8・24)義弟・鶴太郎死去(6歳)。
8月6日(9・16)養父・粂治郎(多郎左衛門)死去(66歳)。家督を継ぎ、養父の遺言により川手から赤沢と改姓。
12月13日(1837.1.19)古川八百蔵の長女・とせ(18歳)と結婚。
天保8(1837)3月2日(4・6)風呂場、便所を建てる。
天保9(1838)田畑あわせて1反余り購入。
※1反(たん)は、300坪(約992平方メートル)。
天保10(1839)6月15日(7・25)長男・亀太郎出生。
天保13(1842)8月16日(9・20)長男・亀太郎死去(4歳)。
10月10日(11・12)2男・槙右衛門出生。
弘化元(1844)1月26日(3・14)門納屋完成。この年、国太郎を文治と改名。
弘化2(1845)2月8日3男・延治郎(後の浅吉、金吉)出生。
弘化3(1846)2月22日(3・19)四国88か所巡拝に出発。3月26日に帰宅。
弘化4(1847)9月17日(10・25)長女・ちせ出生。
嘉永元(1848)6月13日(7・13)長女・ちせ死去(9か月)。
嘉永2(1849)4月25日(5・17)4男・茂平(のちの石之丞、萩雄)出生。
嘉永3(1850)1月4日(2・15)小野光右衛門から、住宅建て替えについて、改めて日柄方位の指示を受ける。
3月14日(4・25)仮小屋に2男・槙右衛門と移り住む。
5月13日(6・22)2男・槙右衛門死去(9歳)。
7月18日(8・25)飼い牛死ぬ。
8月3日(9.8)旧住宅解体に先立ち、金神に拝礼。
8月28日(10・3)新住宅の建築完成。神棚を設け金神に拝礼。
嘉永4(1851)7月18日(8・14)2頭目の飼い牛死ぬ。
12月15日(1852.1.6)2女・くら出生。
嘉永6(1853)11月17日(12・17)田地6畝余りを購入。※6畝(せ)は、約180坪(約595平方メートル)。
安政元(1854)12月25日(1855.2.11)5男・宇之丞(後の虎吉、宅吉)出生。「42歳の2歳子は親を食う」との俗信を恐れ、翌年生まれにまつり替える。
安政2(1855)1月1日(2・17)氏神社で、42歳の厄晴れ祈願。鞆の津祇園宮(1月4日)、吉備津神社と西大寺観音院(1月14~15日)にも参詣。
4月25日(6・10)のどけを患い、医師から「九死一生」と宣告される。
4月29日(6・13)義弟・古川治郎らが病気平癒祈願。金神への無礼を指摘され、お断りを申し、霊験を受ける。
安政4(1857)10月13日(11・29)実弟・香取繁右衛門(のちの香取金光教教祖)をとおして、金神の宮の建築を頼まれ、承諾する。
安政5(1858)1月1日(2・14)「金神下葉の氏子」に取り立てられる。
1月17日(3・2)3女・この出生。
3月15日(4・28)手にお知らせを感得する。
7月13日(8・21)口にお知らせを受ける。
9月23日(10・29)金乃神から「神の一乃弟子」にもらい受けるというお知らせがあり、はだしの行を命じられる。
11月29日(1859.1.2)床柱に神棚を作り、神をまつる。
12月24日(1859.1.27)「文治大明神」を許され、家の先祖についてのお知らせを受ける。
安政6(1859)3月 戸主を3男とする願い出を庄屋から許される。
6月10日(7・9)「金子大明神」の神号を受ける。
10月21日(11・15)取次専念のお知らせ(立教神伝)を受ける。
12月22日(1860.1.14)神から、床の間に仮の神棚2段をこしらえるよう命じられる。
万延元(1860)1月1日(1・23)神から、「神門帳(願主歳書覚帳)」を調えるよう命じられる。
12月19日(1861.1.29)田地1反余りを古川家(妻の実家)に売り渡す。※1反(たん)は、300坪(約992平方メートル)。
文久元(1861)正月 神から、東長屋の建て替えを命じられる。7月22日(8・27)に棟上げを行う。
文久2(1862)3月24日(4・22)蓮行院の修験者が庄屋を訪れ、布教禁止を申し入れる。翌日、神前の幟、神鏡、提灯などを持ち去り、以後、難題を持ちかけるようになる。
11月23日(1863.1.12)「金光大明神」の神号を許される。
12月 母屋の土間を改造して、広前を拡張。
文久3(1863)3月21日 「表口の戸を取り外し、戸がしまらないようにせよ」とお知らせ。
元治元(1864)1月1日(2・8)取次の宮建築についての神伝が下がる。
4月9日(5・14)白川家入門。居宅祈念の許状を受ける。
6月10日(7・13)神から、湯・行水を差し止められる。
10月24日(11・23)「金光大権現」の神号を許され、妻も「一子明神」の神号を受ける。
慶応2(1866)9月8日(10・16)養母・いわ死去(76歳)。
慶応3(1867)2月22日(3・27)神主職補任状を受け、4月に金神社建築を領主に願い出る。
10月5日(10・31)「門の戸を開き、敷居をつぶせ」とお知らせ。
明治元(1868)9月24日(11・8)「生神金光大神」と神号を改め、「天下太平、諸国成就祈念、総氏子身上安全」の幟を立てることや、「神号帳」「一乃弟子改帳」の作製を命じられる。
11月1日(12・14)妻や子どもたち全員に、神号を授けられる。
明治3(1870)10月26日(10・2)「生神金光大神社、天地のしんと同根である」とお知らせ。
明治5(1872)7月28日(8・31)「天地乃神の道を教える生神金光大神社を立てぬけ」「わが心におかげはある」とお知らせ。
11月26日(12・26)小田県達により神職を失い、無資格となる。
明治6(1873)2月18日 戸長から神前撤去を命じられ、翌22日(2月19日)に広前を退く。2月23日(3月21日)、厨子をまつり、取次を再開。
4月11日 天地書附を書き始めるように命じられる。
4月20日 取次の座が定まる。
10月10日 出社信者たちを「金光大神の一乃弟子」とするよう命じられ、さらに、神の働きや生神金光大神差し向けについての神伝(「御神伝」)が下がる。
明治7(1874)11月23日 『御覚書』の執筆を命じられる。
明治9(1876)10月16日 布教行為に対する官憲の監視が始まる。
11月4日 天地金乃神、生神金光大神は、日本全国に道を開き、ゆくゆくは唐、天竺にまで道を開く神である」とお知らせ。
明治11(1878)6月24日 4男・萩雄が氏神・賀茂神社の祠掌となる。
8月30日 (宮の社号が)素戔嗚神社として認可され、広前がその附属社となる。
12月10日 「木札や守り札は出すな。貧しい人々が助からない。天地書附だけ出せ」とお知らせ。
明治12(1879)1,3,7月 激しい下痢にみまわれる。
7月28日 4男の萩雄、教導職試補に任じられる。
明治13(1880)7月31日 「人間が、無礼をお断りするように、天地乃神が教えてやる。その取次をするのが、生神金光大神である」とお知らせ。
12月25日 「人代と神代」についてのお知らせ。
明治14(1881)1月30日 「ご紋を変えよ。八正金神、八つ割りとせよ」とお知らせ。
10月1日 「金光大神の身に虫が入った」とお知らせ。
明治15(1882)10月14日(11・24)「万国まで残りなく金光大神でき、おかげを知らせてやる」とお知らせ。この年、体調の悪い日が続く。
明治16(1883)7月2日 最後の百日修行に入る。
9月21日 「人民のため、大願の氏子を助けるため、身代わりに神がさせる。金光大神ひれいのため」というお知らせを受ける。
9月27日 広前を退き、神前奉仕を4男・萩雄に任せる。
10月10日 帰幽。
10月13日 葬儀。
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